■読書日記(2006年10-12月)


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2006年12月17日

平出 隆 著『ベルリンの瞬間』

2006年11月30日

レーナ・ラウラヤイネン 著『魔術師のたいこ』

2006年11月05日

アリステア・マクラウド 著『彼方なる歌に耳を澄ませよ』

2006年10月15日

大畑末吉 訳『完訳 アンデルセン童話集(二)』

2006年10月01日

シンシア・ライラント 著『ヴァン・ゴッホ・カフェ』



「ベルリンの瞬間」

平出 隆 著(集英社)
2006/12/17

第2次世界大戦の悲惨を、今なお彷彿させずにはおかないドイツの首都ベルリン。
著者は1998年5月から翌年5月までの一年間、ベルリンに滞在した折のさまざまなエピソードを、日記のような形式で綴っています。
言語の異なる土地での生活にまつわるあれこれから、カフカを思い、ベンヤミンの足跡をたどり…。
詩人の言葉を追ううちに、ベルリンという都市の稀有な姿が、克明に浮かび上がってきます。

第11回紀行文学大賞受賞作。ですが巻末の著者の言葉によれば、「本書は基本的に紀行エッセイの類いに分類されるものですが、 著者としては、散文作品としての試みをかさねたつもりでもあります」とのこと。
ジャンルにこだわるつもりのないわたしとしては、平出氏の文章がただ読みたいというだけの理由で、この一冊を手にとりました。
印象としては、先に読んだ『葉書でドナルド・エヴァンズに』『ウィリアム・ブレイクのバット』『猫の客』よりも硬めの語り口で、紀行エッセイというよりは、やはりアカデミックで濃密な散文作品といった味わい。
そもそも、わたしはこの本に登場する多くの作家、評論家、芸術家たちを知らず、カフカも読んだことがなければ、 ベンヤミン、パウル・ツェランの名前に至っては、この作品ではじめて耳にした、というレベルの読者なのです。
ベルリンという都市についてもまた然りで、たとえばヨーロッパの他の都市にくらべ、なじみが薄く、はっきりとした印象がありませんでした。
ただ1989年に、ベルリンの壁が崩壊したときのことだけは、ニュース等で見て、市民が壁をうちこわす映像を、鮮明に思い出すことができます。

さてわたしのような読者が、芸術論や詩論、都市論さえまじえて語られるベルリンの一年を、楽しむことができたのでしょうか?
もちろん、とても楽しい読書体験でした。
読み始めたときはとっつきにくい感じもしたのですが、この本の言葉のリズムに慣れていくと、アカデミックな話題もむしろ快く、文学や芸術が善きものに思われてくるのです。
読み手が知らないことも、ほんとうに面白く語り聞かせてくれる。だからわたしは、平出氏の散文作品を好きだと思うのかもしれません。

言葉も習慣もちがう異国の地。荷物の配送ひとつに戸惑ったり、引越し先を探すため地元の不動産屋をまわったり、ドイツ語を習うため学校に通ったり。 外国での長期滞在にまつわる、そんな身近な話も面白いです。
そこから、飛躍することなくカフカやベンヤミンの話に、自然につながっていきます。
またこの本では、ベルリン滞在中に訪問したヨーロッパの諸都市についても触れられていて、 「ウィリアム・モリスがアーツ・アンド・クラフツ運動を展開した土地」ロンドンや、ローマ、フィレンツェ、アムステルダムなど、 さまざまな都市の空気を感じることもできます。
ポーランド、アウシュヴィッツを訪れたときのくだりなど、やはりつよく印象に残ります。

この本を読んでいる間、わたしは幸せで、それはやはり本に目を落としている時間、ベルリンを旅している気分になれたからなのだと思います。
最近テレビで、ベルリンの大きなクリスマスツリーを目にして、行ったこともないのに、懐かしいような慕わしいような気持ちさえ感じました。

けれども何よりわたしは平出氏の綴る文章が好きで、一節、一節の終わりに、余韻を残すような一文を書かずにはおれないところ、 「どこかで格子を設けるような思考」の仕方、そういったものに、なぜだか惹かれます。
結局、この濃密な散文作品も、わたしは美味しい水を飲み干したように読了し、また次の平出作品に、餓えたように手をのばすことになるのでした。

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「魔術師のたいこ」

レーナ・ラウラヤイネン 著/荒牧和子 訳(春風社)
2006/11/30

山に秋がおとずれ、湿原が真っ赤なこけのじゅうたんにおおわれる頃、 「わたし」は山道で踏み迷ったすえ、目に見えない何かに導かれるように、コタと呼ばれるサーメ人の小屋にたどり着きます。
そこで見つけた、美しい絵がいくつも描かれたたいこは、魔術師ツァラオアイビが残した魔法のたいこ。
たいこは百年に一度、運よくコタを見つけた人だけに、魔術師が残していった物語を聞かせることになっていたのです…。
魔法のたいこが語りだす、静謐で美しい、サーメの12の民話たち。

ファンタジーが大好きなので、まずタイトルが目にとまり、サーメ人の民話というのでさらに興味をひかれ、装幀も素敵だったので、ぜひ読んでみたいと手にとりました。
サーメ人というのは、ラップランドの先住民族ですが、日本人には、漠然としたイメージしかありませんよね。
わたしはサーメ人というと、アンデルセンの「雪の女王」に登場する、「サーメ人の女」というのが、まず頭に浮かびます。
訳者あとがきによるとサーメ人は、「ノルウェイ、スウェーデン、フィンランド北部およびロシアの西北部にまたがる地域で、国境が定められる前から、 自由に移動しながらトナカイの放牧を生業として暮らしてきた先住民族」とのこと。
白夜とオーロラの大地に生きる人々が語りついできた民話は、しずかで、美しく、読んでいると、心がしん、と落ち着きます。
言葉はやさしく、わかりやすく、ごく短いお話ばかりで、ほんとうに魔術師のたいこがひっそりと語り聞かせてくれているような、やすらかな読み心地でした。

印象に残ったのは、白夜のはじまりについて語った「青い胸のコマドリ」。
あるとき闇の精カーモスのおさめる雪と氷の国に迷い込んだコマドリが、自分の生んだ卵を守るため、光の精ツォブガに助けを求め、 ツォブガはカーモスを追いやってラップランドに光の夏をもたらします。 しかしカーモスも負けてはいず、力をたくわえるとラップランドに戻ってきて、大地を長い冬で閉ざします。 ツォブガが再びカーモスを追い払うと、ラップランドはまた白夜の夏に…。
ツォブガとカーモスは毎年こんなことを繰り返し、今もたたかいをやめようとしないのです。
ラップランドに、太陽の沈まない白夜の夏をもたらしたのは、一羽の青い胸のコマドリが、自分の卵を守ろうとしたから…という話。
昔の人々は、こんなふうに美しく、自分たちの住む世界について、語る言葉を持っていたのですよね。
他「オーロラのはじまり」や「太陽の野イチゴ」「白樺の誕生」「氷河に咲くキンポウゲ」など、この本には、 ラップランドの自然の起源について語られた、美しい物語がたくさんおさめられています。

物語そのものだけでなく、自然についての描写も、きわめてすぐれています。
冒頭の、山の秋の風景描写など、読んでいると頭の中に絵が描かれていくようです。
山に秋がおとずれ、湿原に真っ赤なこけのじゅうたんを広げました。谷底の沼にはもう初氷がはって鏡のように光り、秋が自分のすがたをうつしています。 沼をとりまく白樺の木立は、さながら秋がともした、たいまつの列です。
日本人からすればラップランドは、日が昇ることのない長い冬に閉ざされた、厳しく凍てつく土地のように思えますが、 厳しい自然の中にこそ、美しさと、人智を超えるものへの畏怖を、見出すことができるのかもしれません。

民話や神話の中には、現代人が忘れてしまった、たいせつな感性が残されています。 魔術師ツァラオアイビは、未来の人間に大事なものを思い出させるために、魔法のたいこをこの世に残していったのかもしれません。

※アマゾンでは、表紙・裏表紙・目次ほか、本文も少しだけ見ることができますので、どうぞ参考にしてください。

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「彼方なる歌に耳を澄ませよ」

アリステア・マクラウド 著/中野恵津子 訳(新潮社)
2006/11/05

9月、黄金色の季節のなか、ひとりの男が車を飛ばしています。 彼は毎週土曜日、トロントの安アパートに住む兄を訪ねる、恒例の旅をくりかえしているのです。
男は裕福な矯正歯科医。しかし兄は、ダウンタウンの裏通りの薄汚いアパートで、アルコールに溺れ、世間から見捨てられた者として暮らしています。
兄への愛情と罪悪感、兄の部屋を訪れることを憂鬱に感じる自分への疚しさと。
兄が口ずさむゲール語の歌に呼び覚まされた思い出は、彼ら一族のルーツにまで遡り、兄弟の生い立ち、ふたりの人生がこれほどまでに違ってしまった理由が明かされていきます。
18世紀末、スコットランドからカナダ東端の島ケープ・ブレトンに渡った、赤毛の男の子孫。彼らは自分たちのルーツを、身体の中に流れる血を、けっして忘れることはありません――

この作品は、「クロウン・キャラム・ルーア(赤毛のキャラムの子供たち)」と呼ばれる一族の歴史を、大きな時の流れの中でとらえて描ききった、著者渾身の大長編です。
いまこの読書日記を書くために、また最初からページを繰りなおしていると、一度めに読んだときには何とも思わなかった文章にも、涙が込みあげてきます。
何と言うか、劇的でも何でもない物語なのです。
語り口は淡々としていて、それぞれの人生と、スコットランド・ハイランダーの歴史、そして現在のトロントでの様子が、交錯して描かれます。
物語の始まりは、トロントの安アパート。アルコール依存症の兄キャラムの姿はひどく惨めで、弟アレグザンダーが裕福であるだけに、なぜ、という疑問がつのります。
キャラムは弟を今も「ギラ・べク・ルーア(小さな赤い男の子)」と呼び、懐かしい思い出を語り、ゲール語の望郷の歌をうたいます。
兄の歌で呼び覚まされたアレグザンダーの記憶から、彼ら兄弟の生い立ちが徐々に明かされていくのですが、これが、架空のこととは思えないほどにリアルで、力強い物語になっているのです。
キャラムもアレグザンダーも、祖先である赤毛のキャラムも実在の人物であり、「クロウン・キャラム・ルーア」という一族の、ドキュメンタリーを読んでいるかのように。
それはきっと著者アリステア・マクラウドこそが、スコットランド移民の六代目であり、ケープ・ブレトンの、ゲール語を話すハイランド文化のなかで育った人だからなのでしょう。
アリステア・マクラウドがこの物語を書くことは、自然で当たり前で、きっと必要なことでもあったのです。

この物語については、ほんとうにうまく説明できなくて、読むしかない、という感じです。
兄キャラムのこれまでの人生を知るにつけ、はじめは惨めとしか思えなかった彼の現在の境遇に、悲哀と共感をおぼえます。 人にはそれぞれ、やり直しのきかない、人生の物語があるのだと。
ひとつひとつの文章を引用しても、この感慨は伝わらないのだけれども、読了するとすべての描写に意味があったことに気づかされます。
結末、胸につきあげてくる言葉にならない感情は、読了しなければ得られません。

またこの作品は、スコットランドの歴史、そしてカナダの歴史にたびたび触れています。
わたしはそのあたりのことを詳しく知らず、訳者あとがきにある解説をときおり参照しながら読みすすめました。
それでも感動が損なわれることはありませんが、物語の背景をよく知っておくことで、さらに深い読み方ができるのではないでしょうか。
先に訳者あとがきをよく読んでおくのもよし、読了してからスコットランドの歴史やハイランド文化について調べてみるのもよし。 そうして何度でも、くりかえし味わうことのできる作品だと思います。

アリステア・マクラウドの、これまでの全短篇で描かれていたテーマ、ただ生きなければならない人生を生きる者の誇りと、 スコットランド・ケルトというルーツへの愛着。
この長篇では、それらがよりはっきりと前面に打ち出され、切れ味の鋭さを要求される短篇よりも、深く大きく、あたたかく、読者の魂を揺さぶります。

→「ふたりのマクラウド〜スコティッシュ・ケルトの誇り〜」はこちら
→「新潮クレスト・ブックスの魅力」はこちら

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「完訳 アンデルセン童話集(二)」

大畑末吉 訳(岩波文庫)
2006/10/15

全7冊の童話集の2冊めで、「豚飼い王子」「みにくいアヒルの子」「雪の女王」「マッチ売りの少女」ほか、26の作品が収められています。

大人になってから、改めて童話を読みかえすのは、ほんとうに味わい深いもの。 子どもの頃に親しんでいた物語の、素晴らしさを再確認したり、新たな魅力を発見したり。
アンデルセン童話は、完訳版を通読してみると、作品数の多さと、未読の作品の多いことに驚かされます。 子ども向けに紹介されているアンデルセン童話は、ごく限られているということなのでしょうか。

「ナイチンゲール」は、大人になってから知った物語。
エドマンド・デュラックの挿絵(『人魚姫 アンデルセン童話集2』)で楽しんだときは、 アンデルセンが支那趣味(シノワズリ)と呼ぶべき作品を書いていたことに興味をひかれましたが、 今回、大畑末吉氏の訳で読んでみて、改めて美しい作品世界に酔いしれることができました。
シノワズリというのは、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパで流行した中国趣味のこと。 アンデルセンが生きた19世紀後半は、シノワズリがもてはやされたフランスのみならず、北欧などでも中国風の建物が盛んに造られた時代にあたるのだそうです。
「ナイチンゲール」は、現実の中国でなく、あくまで遠い東のはての、神秘的な異国としての「中国」が舞台になっていて、 子供向けのおはなしというよりは、極上のファンタジーの趣があります。
もちろん、細工物の鳥を愛でていた皇帝が、死の床で、宮中から追い出したほんものナイチンゲールの歌声に救われるという物語の内容も、含蓄深いものです。

「赤いくつ」は、子どもの頃から親しんでいた物語ですが、こんなにも怖いお話だったのかと、改めて驚かされました。
墓地で、光り輝く剣をもった天使が、カーレンに死ぬまで踊りつづけるよう宣告する場面など、思い描くだけでも怖い。 運命を逃れるためカーレンが両足を切り落としてからも、なお赤いくつがひとりでに踊りながら現れる場面なども、子ども向けのお話とは思えないおそろしさ。
カーレンが、高慢な心を捨て、神様に生かされているという素直な気持ちをもつまで、「赤いくつ」はカーレンの罪の象徴として、彼女につきまとい続けるのです。

「マッチ売りの少女」も、親しみ深い物語。とっても悲しいお話という印象があって、子どもの頃は好きになれなかったのですが、 大人になってから読んでみると、まったく救いのない結末ではないとわかります。
貧しいマッチ売りの少女が、大好きなおばあさんと一緒に、天に召され、この世の苦しみから解き放たれるというくだり。
アンデルセン童話にはこのような結末が多く、「赤いくつ」なども、最後はカーレンの魂が神様のみもとにのぼってゆき、平安を得るのです。
キリスト教という背景はあるのでしょうが、苦労の多い人生を歩んだアンデルセンの死生観が、作品によくあらわれています。

「かがり針」は、はじめて読む作品でしたが、アンデルセン童話によくあるモチーフの、「物」が人間のように描かれた、おかしみとかなしみの入り混じった短いお話。
自分を縫い針だとうぬぼれていた一本のかがり針。やがて折れてしまい、料理女が封蝋で頭をこしらえ胸のハンカチにさすのでしたが、かがり針は流しに落ち、どぶに流され…と、流転の運命。
けれどもどんな悲惨な状況にあっても、かがり針のうぬぼれはとどまるところを知りません。 自分の値打ちを知っていると思い、他者のことをも理解しているつもりになって…けれども実際には、瓶のかけらをダイヤモンドと思い込み、汚れて黒くなってしまったのに、いっそう上品になったつもりでいるのです。
「かがり針」の運命の変転と、うぬぼれた考えがテンポよく語られ、面白く読んでしまうのですが、これはよく考えると、 周囲にいるあの人この人、いや何より自分自身のことを言い当てられているようで、なんとも身につまされるお話です。

あと印象的だったのは、「城の土手から見た風景画」「養老院の窓から」などの、ひとつの光景のスケッチのような小品。
物語とも呼べないほど短く、囚人や年老いた婦人の眼差しが描かれているので、絵本などで子ども向けに紹介されることはないと思いますが、 アンデルセンの人生観、ひいては普遍的な人生観を、よく伝えている作品ではないでしょうか。
「養老院の窓から」では、ほんの2〜3ページの文章の中に、ひとりの女性の人生、そのよろこびとかなしみが、溢れるほど込められています。 こういった作品に深い感慨をおぼえるのは、やはり大人になったから、なのでしょうか。

『完訳 アンデルセン童話集』には、子どもだけでなく大人も読まなきゃもったいない、宝石のような物語の数々がおさめられています。

→『完訳 アンデルセン童話集(一)』の読書日記はこちら
→『人魚姫 アンデルセン童話集2』の読書日記はこちら

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「ヴァン・ゴッホ・カフェ」

シンシア・ライラント 作/中村妙子 訳/ささめや ゆき 絵(偕成社)
2006/10/01

カンザス州フラワーズ。のんびりとした町のメイン・ストリートに、そのカフェはありました。 むかし劇場だった建物のかたすみにあったので、カフェにはいつも魔法がつきまとっていました。
レジの上にかかった「愛犬、大歓迎」という札。パイののった回転皿の上に、とまってわらっている磁器のメンドリ。女性用トイレの壁に描かれたむらさき色のアジサイ。 「おかえり、ここはきみの家」と歌う、ちいさな茶色のプレイヤー…。 あたたかなカフェの壁にしみこんでいる魔法がひとたび目をさますと、ふしぎで素敵なことが、次々と起こるのです。
やがてヴァン・ゴッホ・カフェという名の、ふしぎなカフェがあるといううわさが広がります。 まるで夢のような、ミステリーのような、すばらしい油絵のようなカフェがあるといううわさです。

この本は、ささめや ゆき氏の挿絵に惹かれて、手にとりました。表紙カバーのカラー絵が、とっても素敵なんです。
タイトルにも惹かれます。「ヴァン・ゴッホ・カフェ」だなんて、どんなに素敵なカフェの物語なんだろうと想像がふくらみます。 読んでみると、シンシア・ライラントさんによる物語は面白くて、あたたかくて、やさしくて、ほんとうにお気に入りの一冊になりました。 ジャンルとしては、児童文学ということになるのでしょうか?

むかし劇場だった建物のかたすみにあるカフェを舞台にした、魔法のおはなし。 「ハリー・ポッター」や「指輪物語」なんかに出てくる魔法ではなく、わたしたちの日常に、そっと溶け込んで、心をあたためてくれる、そんな魔法のおはなしです。
毎朝決まった時間に、ヴァン・ゴッホ・カフェの窓の外の木にぶらさがるようになったオポッサムが、おくさんと死に別れた男のわびしい心に灯をともした話。 いなびかりがピカッと光った日から、カフェの主人マークが、予言を秘めた詩を書くようになり、そのおかげでお客の男の子が探している迷い猫が見つかった話…。 もちろん猫が見つかってから、マークのお告げの力はなくなってしまったのですけれど。

カフェの主人マークはまだ若く、長い髪をポニーテールに結んで、自分のカフェを愛し、娘を愛しています。トイレの壁にアジサイの絵を描き、レジの上に「愛犬、大歓迎」の札をかけたのは、このマークです。 娘のクララは、ものしずかで、考え深く、カフェと父親を愛し、カフェの魔法をとても大切に思っています。
このふたりの素敵なことは、こんなエピソードからわかります。
カフェのお客さんが残していった、魔法のマフィン。たべていいの? とクララが聞きますと、マークは、どうせなら願いごとをしようと言います。 でも、いざ願いごとをするのは難しい。クララはおとぎばなしをたくさん読んでいたので、世の中には幸福をもたらす願いごともあれば、不幸をもたらす願いごともあることを知っていました。 クララは急に、こんなマフィンもらわなければよかったと思い、クララの心配そうな顔を見て、マークも同じように感じます。 ふたりは願いごとなんてするどころではなく、まじめな顔で、マフィンを冷蔵庫にしまいます。

やがてマフィンの魔法は、ほんとうに必要な人のところで力を発揮するのですが、こんな親子、とても素敵だと思いませんか?
マフィンの魔法を当たり前のように信じ、それをむやみに自分のためだけに使うこともしない。ふたりともきっと、魔法の本質をよく知っているのです。
クララが、カフェの魔法を落ち着いて、けれども好奇心いっぱいで見守る様子にも、とても好感がもてます。
魔法はあくまで「むかし劇場だった」カフェに宿るもので、クララとマークは読者と同じように、わくわくしながら魔法を見つめているというスタンスが良いです。

物語の最後、カフェを訪れた「作家志望の男」は、ひっそりとひとすみに座って、まわりのものや、マークや、クララや、訪れる客たちを眺めているうちに、 あきらめかけていた夢が、心の中によみがえってくるのを感じます。
クララとマークは、魔法使いではないけれど、カフェの魔法の一部。ヴァン・ゴッホ・カフェを訪れる人はみな、オポッサムや動物たちも、カフェの魔法の一部なのです。

こんなヴァン・ゴッホ・カフェに一度は行ってみたい、ふしぎな魔法に出会ってみたい、魔法の一部になってみたい…そうは思いませんか?
この本を開けば、ヴァン・ゴッホ・カフェはいつでも、わたしたち読者を待ってくれているのです。

→ささめや ゆきの絵本の紹介はこちら
→おすすめ児童文学の紹介はこちら

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