■読書日記(2006年3月)


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2006年03月22日

コナン・ドイル 著『シャーロック・ホームズの生還』

2006年03月11日

J・R・R・トールキン 著『サー・ガウェインと緑の騎士』

2006年03月05日

エドマンド・デュラック 絵『人魚姫 アンデルセン童話集(2)』



「シャーロック・ホームズの生還」

コナン・ドイル 著/阿部知二 訳(創元推理文庫)
2006/03/22

いやあ、面白かったです。当然の感想ではありますが。
まず第一番目に収録されている「空家事件」は、前作『回想のシャーロック・ホームズ』の最後で、 稀代の大犯罪者モリアーティ教授と格闘して滝つぼに落下し命を落としたと思われていたホームズが、実は生きていた! という驚きと喜びから始まり、モリアーティ教授一味の残党を捕らえるため、またもホームズがあざやかな名推理を披露するというおはなし。
う〜ん、これがあのミステリ史上有名な、ホームズの生還かあ、との思いを噛み締めながら読みました。

話は少しそれますが、ほんとうに、この日記で公開している本の感想は、誰でも読んでいて当たり前と思われている、おかげで今さら読んだことがないとは言い出せない、 という名作を、あえていい大人になってから真面目に読んだら、どう感じるのかという記録であります。
やはり、名作と呼ばれるもの、長く読み継がれてきた作品は、たとえいい大人になってしまってからでも遅くはない、ぜひ手にとってみるべきだと思います。

閑話休題。
つまるところホームズの生還は、諸事情によりホームズものを打ち切りにしたかった作者ドイルが、滝つぼに落として(!)せっかく舞台から退場させた名探偵を、 復活させろ復活させろとファンがあまりうるさく言うものだから、仕様がなくなんとか話をこじつけて甦らせた、というのが真相のようですが。
でも、ホームズものの短篇を一作めから通読していくと、ホームズが滝つぼに落ちてあっけなく死んでしまうなんて、そんなバカな〜と憤った当時のファンの気持ちもよくわかります。
そして、ホームズの生還は、やはりどんなに苦しいこじつけであろうとも(そう不自然な経緯でもないと、わたしは思いますが)、とても嬉しく感じられました。

創元推理文庫のホームズものの短篇集の、3冊めにあたる、この『シャーロック・ホームズの生還』におさめられた作品は、どれも事件の解決のくだりに人情味があり、 癒し系ミステリーとしては、かなりおすすめです。
とりわけ「僧坊荘園」の結末は、ホームズとワトソンの愛すべき人柄をしのばせますし、「第二の血痕」の結末など、ホームズの粋なはからいに、思わず笑みがこぼれてしまいます。
また「六つのナポレオン胸像」の事件解決の場面では、いつも自らの名声には関心のないホームズが、親しい友人たちの惜しみない喝采に、めずらしく人間味を垣間見せたりして、 ちょっと可愛らしいな、などと思ってしまいました。

もちろん結末の人情味だけでなく、物語全体としても、読者をひきこむドイルのストーリーテリング、ことに短篇を書くテクニックは素晴らしいと言わなければなりません。
巻末の解説によると、推理小説としては凡作も混じっているとのことですが、それも含めて、やはりコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズは、 すべてのミステリー愛好家の古典であり、バイブルなのでしょうね。

→おすすめミステリの紹介はこちら

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「サー・ガウェインと緑の騎士
トールキンのアーサー王物語」

J・R・R・トールキン 著/山本史郎 訳(原書房)
2006/03/11

実はわたしは、アーサー王物語を読むのは、これが初めて。
ただ、トールキンのアーサー王物語は、ちょっと異色のようで、「ミドルアース」などといった表現も見られ、 トールキンのオリジナル作品を読むようでもありました。 騎士道物語が、トールキンの好みと、ぴったり合っているのでしょうね。
収録作品は、「サー・ガウェインと緑の騎士」「真珠」「サー・オルフェオ」「ガウェインの別れの歌」の4篇。 さらに作品理解のため、トールキン自身の解題が添えられています。

「サー・ガウェインと緑の騎士」は、アーサー王の宮廷でも、もっとも高潔な騎士ガウェインが主人公の、騎士道物語。
アーサー王の宮廷の、新年の宴の席にあらわれた、全身緑色をした大男の騎士。 緑の騎士は、宴にうちそろった高貴な人々に、自ら丸腰で刃の一撃を受け、一年と一日後、相手にもお返しの一撃をみまうという、とんでもない余興を申し出ます。
皆が驚き呆れる中、この挑戦を受けてたったのはサー・ガウェイン。見事戦斧で一撃すると、緑の騎士の首は、ごろごろと転がり落ちてしまいます。 ところが緑の騎士は、自分の首を拾い上げると、一年と一日後に約束を果たすようガウェインに念を押し、去っていってしまうのです。
高潔の騎士ガウェインは、必ずや死に至る約束を果たすため、緑の騎士を探す、あてどない旅に出かけることに…。

長さは中篇といったくらいで、ストーリー展開も面白く、一気に読み進めることができました。
物語は、まさに古典的というか、お約束どおりに展開していくのですが、そこがとっても良いのです。 現代の物語が忘れてしまった、美しい形式が、ここに留められている、といった感があります。
描かれる自然の風物はみずみずしく、牧歌的で、宮廷・社交界の様子などは、華やかでありながら礼儀正しく、古き良き時代の美や高潔の精神がうかがえます。
何よりガウェインの、つよく、たくましく、それでいて誠実な人柄が素敵。
緑の騎士とのとんでもない約束も、死ぬとわかっているなら守らなくてもいいのに、生真面目に約束を果たそうとするし。
敬虔なキリスト教信者で、つねに神への祈りや謙虚な心を忘れないし。
そして、緑の騎士を探す旅の途中で、導かれるように立ち寄った城で、城主の美しい奥方に再三、言い寄られるのですが、女性を傷つけることなく、でもきっぱり断るんですよね〜。
なんだか、トールキン<指輪物語>で、アラゴルンがエオウィン姫に思いを寄せられるんだけど、きっぱり断ったのを思い出します。
やっぱり、高潔な人っていうのは、こうでなくっちゃね〜、なんて思いました。

こんなふうに書くと、ガウェインが完璧すぎて、リアリティのないキャラクターのようですが、奥方に言い寄られる中で、 彼もたった一度、つまずいてしまうのです。それはほんの些細な、人間として当たり前の、命を落としたくないと思うあまりの過ちだったのですが、 ここでさすがのガウェインも、まったき誠実に及ばず、奥方の夫である城主とかわした約束を、破ることになってしまいます。
最後に、この罪(とも呼べないちいさな罪ですが)が暴かれて、ガウェインは恥じ入るのでしたが、この一点の罪が、彼を生身の人間にしています。
誰でも失敗するんだな、とか、失敗してもそのことを誠実に受け入れ、認めれば、品格が損なわれることはないんだな、とか。 むしろその経験によって、人は成長し、人間として深みを増していくんだな、等々、そういった当たり前のことを、しみじみと感じました。
他、ガウェインが死の危険を伴う旅に、敢然と出かけるところや、森の中の豪壮な城に導かれるところなど、 ちょっとダンセイニの「サクノスを除いては破るあたわざる堅砦」を想起させる雰囲気もあり、 いろいろな美しい要素が散りばめられた、魅力的な物語でした。

「真珠」は、キリスト教の教義に関する記述が多く、聖書について触れた部分もあるので、少し感情移入しにくいのですが、神の栄光の国の描かれ方など、 C・S・ルイス<ナルニア国ものがたり>の結末の場面を思い出しました。
また「サー・オルフェオ」は美しいおとぎ話で、そういえばル・カインが絵本にしていたな、それも味わってみたいな、なんて思ったり。
さまざまな連想もあって、とても楽しく読めた一冊でした。

騎士道物語やロマンスといった文学形式は、古典的であるがゆえに、現代人にとってはたいへん新鮮味があります。

→おすすめファンタジーの紹介はこちら
→ル・カイン『サー・オルフェオ』の紹介はこちら

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「人魚姫 アンデルセン童話集2」

エドマンド・デュラック 絵/荒俣 宏 訳(新書館)
2006/03/05

イギリス挿絵画家の最高峰、エドマンド・デュラックが絵を寄せたアンデルセン童話集。
収録作品は、「人魚姫」「夜なきうぐいす」「パラダイスの園」の3篇。
「人魚姫」は、アンデルセンの作品の中でも、とても有名なものですが、「夜なきうぐいす」と「パラダイスの園」は、まったく読んだことがありませんでした。
3篇とも、とても美しくて、感慨深い物語で、アンデルセンの尽きせぬ魅力に、すっかり虜となってしまいました。

「人魚姫」は、ほんとうに幼い頃に、子ども用に短く書き直された絵本を、とても好きで、よく読んでいました。
大人になってから、こうして改めて再読してみると、子どもの頃に読んだものが、なんと深く、人の心に刻みつけられるものかと、そのことにまず驚いてしまいました。
忘れていたはずの物語の細部が、読みすすむうちに心の奥底から甦ってきて、その「甦る」感覚は、昔こんな本を読んだなという感じではなく、 まるで自分自身の体験したことを、まざまざと思い出すかのような、そんな不思議な感覚だったのです。

15歳になると、海の上に浮かび上がって、どこへでも自由に泳いでゆけるという、人魚の掟。
主人公である末の人魚姫が、海の上、陸地の風景に憧れる気持ち。
5人の姉さま方がひとり、またひとりと海の上に泳いでゆくことを許されるのを見送るときの、うらやましく焦がれる気持ち。
ああ、わたしもこんなふうに、何かに焦がれながら、人を見送ったことがあったような気がしてきます。
そして、海の魔女の、おそろしい魔法。
ひとたび引き込まれたら命がない、凄まじいうずまきを超え、不気味に泡立つ泥深い道をたどって、魔女の家をおとずれる、あの怖さ。
魔女が魔法の薬を調合するときに、「自分の胸を針で突いて、どす黒い血を、大なべのなかに、したたらせ」る場面など、 すっかり忘れていたディテールだったのに、読んでいると、その魔女の醜い胸元や、したたる血の色や、おそろしい魔法を忌まわしいと思いながらも、 つよく惹かれる感じなど、心の深いところからふつふつと湧き上がってきて、ほんとうに感慨を覚えました。

「人魚姫」の再読によって、かつて読んだものを、何度も読み返すことの意味や、子どもの頃に何を読むべきか、といったことを考えさせられました。
こんなにも、子どもの頃に読んだものが、人の心の深奥に鮮明な記憶となって残るということは、素晴らしいことでもあり、おそろしいことでもあると思うのです。
子どもが読む本は、それが真にその子の血となり肉となるのだということを、大人がよく理解しなければならない、と思いました。

「夜なきうぐいす」と「パラダイスの園」は、まったく初めて読む作品で、どうして今までこんなに美しい物語を読まずにきてしまったのだろうと、悔しく思うほどでした。
「夜なきうぐいす」は、中国風の国を舞台にした珠玉の童話。アンデルセンが、このような中国風の物語を書いていたなんて、驚きです。
訳者の解説によりますと「アンデルセンが生きた19世紀後半は、いわゆるロマン主義の延長として異国的な雰囲気をかもしだす中国風の建物が、 支那趣味の総本山であるフランスを越えて北欧あたりでも盛んに造られる時期にあたっていた」とのこと。
支那趣味(シノワズリ)という言葉を、初めて知り、深く納得しました。
実は、ロード・ダンセイニも、中国風の短篇をいくつか書いていて、あれが支那趣味(シノワズリ)だということが、よく分かったのです。
支那趣味(シノワズリ)というのは、あくまで中国「風」で、東洋「風」ということで、決してリアルな中国の姿を求めているわけではないんですよね。
「夜なきうぐいす」では、ヨーロッパの人たちにとって、遠いいやはての地であった中国・東洋が、美しく神秘的に描かれていて、たいへん興味深く読むことができました。

「パラダイスの園」も、アダムとイブが犯した罪によって、永遠に失われたエデンの園が、ヒマラヤ近くのアジア地域の、地下深くに隠されているものとして描かれていて、 これも西洋の人々にとって、東洋が異世界であったことがうかがえます。
日本人にとって、「夜なきうぐいす」などの作品は、中国が舞台だと思って読むと違和感があるので、 あくまで幻想の国として味わうと、物語の世界に素直に溶け込んでゆけると思います。

この『人魚姫 アンデルセン童話集2』は、アンデルセンの幻想の魅力を、存分に味わうことができる一冊。
デュラックの美しい挿絵が、アンデルセンの創造した広大な異世界を、香り高く彩って、読者を誘います。

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