■ふたりのマクラウド―スコティッシュ・ケルトの誇り―

〜時をへだてた二人の作家〜


ウェールズのケルトは余裕がある、 アイルランドのケルトも楽天的だ。 しかしスコットランドのケルトだけが昏く悲しい。

―フィオナ・マクラウド『ケルト民話集』(ちくま文庫)より


灰色の輝ける贈り物 (新潮クレスト・ブックス)

「誰も人生は楽なもんだなんて言ってやしないさ。人生というのは、 ただ生きていかなきゃならないものだというだけのことよ」

―アリステア・マクラウド『灰色の輝ける贈り物』(新潮社)より


このページでとりあげる、ふたりのマクラウドとは、フィオナ・マクラウドとアリステア・マクラウドのこと。
フィオナ・マクラウドは、本名をウィリアム・シャープといい、19世紀のケルト文芸復興運動(ケルティック・ルネッサンス)に参加した作家の一人。 昏く哀しい幻想に満ちた物語は、21世紀の今日も読み継がれています。
アリステア・マクラウドは、1936年生まれのカナダの作家。スコットランド・ハイランダーというルーツをテーマにした作品群は高く評価され、次作の発表が待ち望まれています。
両者の作風はまったく異なるもので、このふたりが並べて語られるのは、稀なことかもしれません。 けれどもわたしの中では、ともに、滅びゆく民族の誇りを掲げる作家として結び合っていて、ぜひ一緒に紹介したいと思いました。

時をへだててスコティッシュ・ケルトの誇りをうたいあげる、ふたりのマクラウド。 彼らの紡ぐ言葉はどれも、夜の闇の中でひるがえる、篝火のように美しいです。



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▼フィオナ・マクラウド邦訳作品

著者紹介

「ケルト民話集」

「かなしき女王」

▼アリステア・マクラウド邦訳作品

著者紹介

「灰色の輝ける贈り物」

「冬の犬」

「彼方なる歌に耳を澄ませよ」




▼フィオナ・マクラウド邦訳作品


●フィオナ・マクラウド ― Fiona Macleod ―

本名、ウィリアム・シャープ(William Sharp)。
1856年、英国スコットランドのグラスゴーに生まれる。
若い頃からケルトの民話を聞き集め、1892年『異教評論』の自費出版を皮切りに、W・B・イエイツらのケルト文芸復興運動(ケルティック・ルネッサンス)に参加。 本名でオカルト研究に従事する一方、マクラウド名で幻想物語を発表しつづけた。
彼は自身を「フィオナ・マクラウドの代理人」と称し、二人が同一人物であることが明かされたのは、シャープの死後のことだった。
1905年、病没。

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「ケルト民話集」

フィオナ・マクラウド 著/荒俣 宏 訳(ちくま文庫)
大学時代、ロード・ダンセイニの諸作品に感銘を受けたことから、ダンセイニ周辺のケルト文学にも興味をひかれ、購入した本。
一読したものの、あまりの昏さに押し潰され、物語の魅力がわからず、ずっと本棚の片隅に埋もれていたのです。
先月のこと、アリステア・マクラウド 著『灰色の輝ける贈り物』を読み、 スコティッシュ・ケルトの哀しみをつよく感じたことから、彼ら民族のルーツを知りたく思い、『ケルト民話集』を再読しようと思い立ちました。

前置きが長くなりましたが、そのような経緯で、フィオナ・マクラウドを改めて読み返した結果、ようやく、この昏い夢を紡ぐ作家の真価が、 わかったような気がします。

『ケルト民話集』におさめられている短篇は、いずれも、ほんとうに昏く、哀しく、死の気配に満ちています。
「クレヴィンの竪琴」は、なかでも鮮やかなイメージを残す一篇。
英雄として誉れ高い美丈夫コルマク・コンリナス。 王に背き、たぐいまれな美女エイリイと愛し合った咎で、コルマクは追放され、エイリイは琴弾きクレヴィンに嫁がされます。
エイリイはコルマクへの思いを決して捨てず、クレヴィンはそんなエイリイを許そうとはしません。
やがてエイリイはコルマクの子を産み落としますが、クレヴィンの竪琴は、この赤子の魂を妖精のもとへ誘い、死に至らしめます。
結末、コルマクとエイリイの密通を知ったクレヴィンは、妖精に手ほどきを受けた魔力もつ琴の音を奏で、 妻もその愛人も、母親も召使も家畜も、邸ごと焼き亡ぼしてしまうのです。

エイリイは、その美しさから、多くの男性を虜にし、惑わし、それが自らの死を招きました。
英雄コルマク・コンリナスの最期は、華々しい功(いさおし)に彩られることもなく、無残なものでした。
そして琴弾きクレヴィンは、自分の持っていたものすべてを、自らの手で焼き亡ぼし、妻の愛を得ることは永久(とこしえ)になく、だた死のみを望んで、 コルマク・コンリナスの血族のもとへと旅立つのです。

他の作品も同様に、登場人物たちはまず間違いなく、狂気と愛に憑かれるようにして、死へと赴いてゆきます。
こんなに、何の救いもない物語群が、長く読み継がれてきた(※注1)のは一体なぜなのでしょう。

フィオナ・マクラウドの作品の魅力として、まず、ケルト的な美しさが挙げられると思います。
クレヴィンが、「緑の琴弾き」と呼ばれる妖精とともに竪琴を爪弾き、生まれたばかりのエイリイの子を死へと誘う場面は、おそろしくも美しく、 妖しい誘惑者としての妖精のイメージが、鮮やかに読者の胸に灼きつけられます。
このようにケルトの伝承が息づく、幻想的なイメージは、他の作品のあちこちに見られます。

そして、わたしが感じたフィオナ・マクラウド作品の、何よりの魅力。
それは、彼が執拗に謳いあげた「ケルト的な哀しみ」――さらに言うなら、<ケルト民族の誇り>ではないかと思います。
フィオナ・マクラウドは、ケルティック・ルネサンスと呼ばれる、民族の自主独立運動に参加した作家の一人。 彼の思いは、『ケルト民話集』の最後に収録された「イオナより」において、ジョージ・メレディスへのメッセージのかたちで、詳しく語られています。
「死滅を宣言された去りゆく民族」ケルト人の哀しみと誇りとを、意外なほど熱く語ったこの文章は、 『灰色の輝ける贈り物』で描かれていた、現代を生きるスコットランド移民の人々の、ひたむきに生きる姿を思い出させ、 読んでいて胸を打たれました。

死と哀しみ。民族の、人間の宿命を、思い知りながら、それでも絶望することのない力づよさと、誇り高さ。
ケルトは滅びても、民族の魂は滅びないという、つよいメッセージこそ、フィオナ・マクラウドの作品の真価ではないかと思います。

「イオナより」の結びの言葉は、涙なしには読み終えることができませんでした。
しずかな言葉に込められた――かかげられた松明の炎のように照り映える、ケルト民族の、ゆるぎない誇り。
しかし、あなたがいる。そして、あなたほど聡明ではないが熱意においてはゆめゆめ劣らない人々もいるから、 わたしたちは絶望する必要がない。「英国人はヒースの原を踏みにじれるかもしれないが」と、アーギルの羊飼いたちはいう、
「しかしかれらは、風までを踏みつけにすることはできない」と。

フィオナ・マクラウド 著/荒俣 宏 訳『ケルト民話集』(ちくま文庫)所収
「イオナより(ゲール族について)Prologue――From Iona」より
(※ ここでの「あなた」とは、ジョージ・メレディスのこと)

(※注1 『ケルト民話集』所収の作品の大部分は、短篇集”The Sin-Eater”(1895年)に収録されていたものです)

2006/05/03

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「かなしき女王」

ケルト幻想作品集
フィオナ・マクラウド 著/松村みね子 訳(ちくま文庫)
かなしき女王―ケルト幻想作品集 (ちくま文庫)
まず、冒頭に収録された短篇「海豹」を読み、キリスト教的イメージの濃厚なことに意表をつかれ、大正期の歌人、松村みね子(本名:片山廣子)の美しい訳文に感動しました。
聖者コラムが、まったき平安を求めて、おのが罪を悔い改める、この短い話。
コラムは月夜の浜辺で、人間の母と海豹の父とのあいだに生まれた子どもに出会うのですが、 この子の歌う姿の、妖しく昏い美しさは、忘れがたいものがあります。
人間と海豹の罪の子、たましいを持たぬ子の、哀しいさびしい歌に、胸をつかれます。
この歌など、歌人・松村みね子の、言葉に対する鋭い感受性あってこその名訳だと思います。

「女王スカァアの笑い」「かなしき女王」の2作品は、ケルト神話に材をとった、愛と血と狂気に満ちた作品。
本のタイトルにもなっている”かなしき女王”スカァアの、美しき英雄クウフリンへの狂わしい愛。 その愛がかなわぬことを知り、残酷に人を切って捨てては哄笑する女王スカァアの、おそろしさ、かなしさ。そのイメージの鮮烈なこと。
また、スカァアにそれほどまで思われる、英雄クウフリンの美しさも、つよく胸に灼きつけられます。
フィオナ・マクラウドの描くクウフリンは、ケルト神話の代表的な英雄ク・ホリンとは、少々趣を異にしているように感じられます。
神話より、いっそう美しく、昏く、孤独なイメージなのです。
フィオナ・マクラウドにとっての、このクウフリンのイメージは、たいへん興味深いものがあります。

「最後の晩餐」「魚と蠅の祝日」「漁師」などは、キリスト教的モチーフに彩られた作品。
これらの作品では、キリストがたびたび登場するのですが、このキリストの雰囲気やたたずまい、 あらわれ方、語る言葉などが非常にケルト的で、なんとも不思議な味わいがあります。
「浅瀬に洗う女」という作品では、死の予言をする妖精バンシーが、「わが名はマグダラのマリヤ」と歌っていて、 ほんとうにケルト的イメージとキリスト教的イメージとが渾然一体となっています。
アイルランドをはじめとするケルト圏へのキリスト教の布教は、土着信仰とキリスト教とのゆるやかな融合のかたちをとったと言いますが、 上記のような作品から、その布教の成果の一端がうかがえるでしょう。

「精」においては、ケルト圏の土着信仰と、キリスト教との相克があったこともうかがえます。
キリスト教の聖者コラムに仕える青年カアル。信仰と女性への愛との間で苦悩し、愛を選んだ彼は、罰として樫の洞の中に、生きながら閉じ込められてしまいます。
しかし彼は肉体の死ののち、たましいの自由を得、精の人たちの存在を知ることに。カアルは女の精デオンと愛し合うようになり、精としての生命を得ます。
数年後、カアルに罰を与えた聖者モリイシャは、精の人となったカアルと対面。キリスト教の教えにそぐわぬカアルの姿を、はじめは呪ったモリイシャでしたが、 やがて悟りを得、妖精や動物たちを祝福し、平安のうちに死を迎えるのです。
土着信仰ドルイドとキリスト教との相克の問題に、フィオナ・マクラウド独特の神秘思想がひとつの答えを提示する、印象深い物語。
白い花からとった、月の光る露を瞼に塗られたカアルが、樹の内と外とを自由に出入りする「美しいうす青い生命」、精の人たちを目の当たりにする場面は、圧巻です。

ちなみに、「琴」と題された一篇は、『ケルト民話集』収録の「クレヴィンの竪琴」と同じ作品です。
最後に収録された戯曲「ウスナの家」は、「琴」の続編にあたり、あわせ読むと、ケルトの哀感がいっそう際立ちます。
また巻末には、井村君江氏による解題が付されており、松村みね子女史の訳文を味わう上で、とても参考になります。

スコティッシュ・ケルトのもの哀しさを、歌人・松村みね子のみずみずしい日本語で読むことのできるこの一冊。
『ケルト民話集』とあわせ読み、フィオナ・マクラウド作品の真髄を感じたいものです。
「この少女はダフウト――不思議――と名づけて下さい、ほんとうにこの子の美は不思議となるでしょう。 この子は水泡のように白い小さな人間の子ですが、その血の中に海の血がながれています、この子の眼は地に落ちた二つの星です。 この子の声は海の不思議な声となり、この子の眼は海のなかの不思議な光となりましょう。この子はやがては私のための小さい篝火ともなりましょう、 この子が愛を以て殺す無数の人たちの為には死の星ともなり、あなたとあなたの家あなたの民あなたの国のための災禍ともなりましょう、 この子を、不思議、ダフウトと名づけて下さい、海魔のうつくしい歌の声のダフウト、目しいた愛のダフウト、笑いのダフウト、死のダフウトと」

フィオナ・マクラウド 著/松村みね子 訳
『かなしき女王 ケルト幻想作品集』(ちくま文庫)所収
「髪あかきダフウト」より

2006/05/05

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▼アリステア・マクラウド邦訳作品


●アリステア・マクラウド ― Alistair MacLeod ―

1936年、カナダ・サスカチェアン州生まれ。 作品の主舞台であるノヴァ・スコシア州ケープ・ブレトン島で育つ。 きこり、坑夫、漁師などをして学資を稼ぎ、博士号を取得。 2000年春まで、オンタリオ州ウインザー大学で英文学の教壇に立つ。傍らこつこつと短編小説を発表。 99年刊行の唯一の長編『No Great Mischief』がカナダで大ベストセラーになったため、 翌2000年1月、76年と86年刊の2冊の短編集の計14篇にその後書かれた2篇を加え、全短編集『Island』が編まれた。

(※ 『冬の犬』著者紹介より)

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「灰色の輝ける贈り物」

新潮クレスト・ブックス
アリステア・マクラウド 著/中野恵津子 訳(新潮社)
灰色の輝ける贈り物 (新潮クレスト・ブックス)
カナダ、ケープ・ブレトン島。
『赤毛のアン』で有名なプリンス・エドワード島を西に望む島、と説明する以外に、日本人にはなじみのない場所が、この本の舞台です。
ケープ・ブレトン島には、スコットランド高地からの移民が多く住み、彼らは漁師や坑夫を生業として、日々を送っています。
けれども時は移り、若者たちは、脈々と受け継いできた血も伝統も捨て去り、都会へと出てゆこうとするのです。
この本は、美しく苛酷な自然と対峙して生きる、ケープ・ブレトン島の人々の、人生の断片を鮮やかに切りとった短篇集です。

はっきり言うと、わたしの好みの小説というわけではありませんでした。
同じく新潮クレストブックスのジークフリート・レンツ『アルネの遺品』のような、静かな美しさを期待して手にとった本でしたが、 このアリステア・マクラウドの短篇集は、手触りがまったく違っていました。
荒々しく、生々しく、あまりに苛酷な人生の断片を、抑制のきいた筆致で物語った、地味な短篇ばかり。
けれども読み始めると、静かだけれども奥底に、魂の熱を感じさせる語り口から目をそらせずに、物語の最後まで、どうしても連れていかれてしまうのでした。

心に否応なく刻みつけられる言葉の数々。
『船』という一篇。長年漁師を続けてきた父が、実は「肉体的にも精神的にも漁師には向いていないのかもしれない」と、ある日突然気づいてしまった青年。
彼の、「自分本位の夢や好きなことを一生追いつづける人生より、ほんとうはしたくないことをして過ごす人生のほうが、はるかに勇敢だと思った」という言葉。

『ランキンズ岬への道』。人里はなれた岬の突端に住む、年老いた祖母を、ある秘密を抱え一人たずねる青年。彼に与えられた運命と、祖母が折あるごとに言った言葉。
「誰も人生は楽なもんだなんて言ってやしないさ。人生というのは、ただ生きていかなきゃならないものだというだけのことよ」

『夏の終わり』の語り手は、立坑を掘る開坑チームのリーダー。
坑夫として世界中をめぐり、そうして得たお金で養い育てた家族と、共有した時間はしかしほとんどなく、 いくどめかの旅立ちの時を迎えても、子どもに、妻に、言うべき言葉の見つからない男の、胸中の涙。
「私には、若い者の言うように、「ありのままにしゃべる」ことができなかった。これからもできそうもない」

こうして抜き出してみれば、ありきたりの言葉かもしれません。でも最初から最後まで読むと、胸につよく迫ってくるのです。
読ませる短篇は、テクニックのある作家にしか書けません。
けれどもこの短篇群に読者がひかれるのは、文章や構成のうまさだけでなく、静けさの奥の熱と悲しみに、魂をゆさぶられるからではないかと思います。
『帰郷』と、『失われた血の塩の贈り物』の二篇は、ほんとうに美しい短篇でした。 遠くはなれてしまった故郷への思い、過ぎ去って二度と戻らない日々、癒されえぬ喪失感。
この地表に、不恰好に這いつくばって生きるしかない人間の、なんと美しいことでしょう。

最後の短篇『夏の終わり』の、ほんとうにいちばん最後におさめられた、十五世紀の詩。
ここには引用しませんが、最後まで読んで、この詩にたどり着いたとき、ほんとうに魂のふるえる思いがしました。
ケープ・ブレトン島に生きる、スコットランド・ケルトの人々の、胸に秘めた誇りに、涙を抑えることができませんでした。

『灰色の輝ける贈り物』、この短篇集の底には、スコットランド・ケルトの、昏さと悲しみとがひそやかに流れているような気がします。
「ウェールズのケルトは余裕がある、アイルランドのケルトも楽天的だ。しかしスコットランドのケルトだけが昏く悲しい」
これはフィオナ・マクラウド 著/荒俣宏 訳『ケルト民話集』(ちくま文庫)の中にでてくる、著者の言葉です。
学生時代に読んで、あまりの救いのなさに物語の魅力を理解できなかった、この『ケルト民話集』を、今こそ読み返してみたいと思います。

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2006/04/18

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「冬の犬」

新潮クレスト・ブックス
アリステア・マクラウド 著/中野恵津子 訳(新潮社)
冬の犬 (新潮クレスト・ブックス)
原本は『Island』という、2000年1月に出版されたアリステア・マクラウドの全短篇集。
邦訳版では、前半と後半の2冊に分けて、新潮クレスト・ブックスより、『灰色の輝ける贈り物』、『冬の犬』として刊行されました。

『Island』は、カナダ東端の厳冬の島ケープ・ブレトンを舞台に、スコットランド移民の人々の、自然に根ざした誠実な生き様を、あざやかに切りとって描き出した短篇集。
『灰色の輝ける贈り物』を読み、好きなタイプの小説ではないにしろ、その静かな熱と迫力に圧倒されて、 これは『Island』後半の短篇群『冬の犬』も、読まないわけにはいかないだろうと感じました。
またこのページでは、スコットランドの幻想作家フィオナ・マクラウドの短篇集『ケルト民話集』、『かなしき女王』についても紹介していますが、 これらの本で描かれるスコティッシュ・ケルトの誇りと哀しみに感銘を受け、現代を生きるケルトの末裔の姿を知りたい、との思いもありました。

アリステア・マクラウドの作品は、大上段にかまえ、声高に問題提起をしているわけではありませんが、 読むうちに、現代日本に生きるわたしたちの価値観や生き方について、考え直すことを迫られます。
書かれていることのすべてが、頭で考えられたものではなく、ほんとうに本物で、大地に根ざして生きる人間の、真実の記録だからなのだ思います。

『冬の犬』の短篇群は、そのどれもが切実で重い内容を含んでいます。
冒頭に収録された、「すべてのものに季節がある」は、なかでもとりわけ美しい一篇。
少年の頃の、クリスマスの日々の、短い回想。
ケープ・ブレトン島の冬景色。初雪の感触。サンタクロースへの祈りにも似た憧憬。
クリスマスの食卓のため殺される家畜や、そりをひく馬の息づかい。
遠いところで働いている長兄の帰りを、待ちわびる家族の姿。
ほんの十五分ほどの通勤バスの中で読んでしまえる、ほんとうに短い作品なのですが、読み終えて涙をこらえるのに苦労したほど、描かれた光景の美しさに打たれました。
アリステア・マクラウドの文章の上手さにも、唸らされます。
体調を崩し、徐々に弱っていく父の姿を、帰省して久しぶりに目の当たりにした長兄の驚き。 その長兄が、クリスマスのミサの折、近所の人に「お父さんはどうしてるかね?」とたずねられ、答えを返したときの描写。 「「ああ」と兄は言う。「ああ」としか言わない。」
この一行だけで、もうすべてがわかる、わかってしまうという文章。
行間を読ませる、無駄のない、抑制のきいた筆致。
最後の父親の言葉が、読者の胸を貫きます。
「誰でもみんな、去ってゆくものなんだ」と父が静かに言う。私は父がサンタクロースのことを話しているのだと思っている。 「でも、嘆くことはない。よいことを残してゆくんだからな」
「完璧なる調和」は、ゲール語民謡最後の歌い手と言われる一人の男の人生を通して、スコティッシュ・ケルトの誇りと哀しみを謳いあげた一篇。
『灰色の輝ける贈り物』では、暗に仄めかされる程度だったスコットランド・ハイランダーのルーツと、ケルトの伝統といったテーマが前面に出ていて、 ああ、やはりアリステア・マクラウドの言いたかったことは、これだったんだなあと思いました。
アリステア・マクラウドは、その名前からも察せられるとおり、スコティッシュ・ケルト、スコットランド・ハイランダーの末裔であるからです。
「完璧なる調和」は、主人公アーチボルドが、無器用に、朴訥に、けれど誠実に生きる姿が、つよく胸を打ちます。
そして、アーチボルドのうたうゲール語の歌の力づよさと美しさが、深く印象に残ります。
この一篇も、最後の一言に泣かされます。アリステア・マクラウドの作品は、終わり方にいつも、叙情的な余韻があります。

最後の一篇「クリアランス」も、スコットランド・ハイランダーのルーツを強調したテーマになっています。
クリアランスというのは、18〜19世紀、牧羊のためにスコットランド・ハイランドに住む人々を強制的に立ち退かせた「ハイランド・クリアランス」という歴史的事実のことで、 ケープ・ブレトン島のスコットランド移民たちは、このクリアランスで故郷を追われた人々の子孫なのです。
新天地で、家族が幸せになれると信じ、土地を切り拓き、作物や家畜を育て、漁に出て…ひたすら前に進んできた人々が、 島の観光地化や、パルプ用材のための木の伐採、自然保護運動や漁獲割当量の変更など、さまざまな理由で、それまでの暮らしを続けられなくなっている現状が描かれています。
最後あたりの、主人公のモノローグには、打ちのめされます。
「俺たちは、こんなことになるために生まれてきたんじゃない」
時代の波に押し流されようとしている、誇り高き民族の末裔の姿に、わたしたち日本の読者は、考えさせられることが多いはずです。

これらの短篇で描かれたテーマを、より深く追求し、カナダで大ベストセラーとなった、アリステア・マクラウド唯一の長篇『彼方なる歌に耳を澄ませよ』を、 続けて読んでみたいと思っています。

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2006/06/03

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「彼方なる歌に耳を澄ませよ」

新潮クレスト・ブックス
アリステア・マクラウド 著/中野恵津子 訳(新潮社)
彼方なる歌に耳を澄ませよ (新潮クレスト・ブックス)
9月、黄金色の季節のなか、ひとりの男が車を飛ばしています。 彼は毎週土曜日、トロントの安アパートに住む兄を訪ねる、恒例の旅をくりかえしているのです。
男は裕福な矯正歯科医。しかし兄は、ダウンタウンの裏通りの薄汚いアパートで、アルコールに溺れ、世間から見捨てられた者として暮らしています。
兄への愛情と罪悪感、兄の部屋を訪れることを憂鬱に感じる自分への疚しさと。
兄が口ずさむゲール語の歌に呼び覚まされた思い出は、彼ら一族のルーツにまで遡り、兄弟の生い立ち、ふたりの人生がこれほどまでに違ってしまった理由が明かされていきます。
18世紀末、スコットランドからカナダ東端の島ケープ・ブレトンに渡った、赤毛の男の子孫。彼らは自分たちのルーツを、身体の中に流れる血を、けっして忘れることはありません――

この作品は、「クロウン・キャラム・ルーア(赤毛のキャラムの子供たち)」と呼ばれる一族の歴史を、大きな時の流れの中でとらえて描ききった、著者渾身の大長編です。
いまこの読書日記を書くために、また最初からページを繰りなおしていると、一度めに読んだときには何とも思わなかった文章にも、涙が込みあげてきます。
何と言うか、劇的でも何でもない物語なのです。
語り口は淡々としていて、それぞれの人生と、スコットランド・ハイランダーの歴史、そして現在のトロントでの様子が、交錯して描かれます。
物語の始まりは、トロントの安アパート。アルコール依存症の兄キャラムの姿はひどく惨めで、弟アレグザンダーが裕福であるだけに、なぜ、という疑問がつのります。
キャラムは弟を今も「ギラ・べク・ルーア(小さな赤い男の子)」と呼び、懐かしい思い出を語り、ゲール語の望郷の歌をうたいます。
兄の歌で呼び覚まされたアレグザンダーの記憶から、彼ら兄弟の生い立ちが徐々に明かされていくのですが、これが、架空のこととは思えないほどにリアルで、力強い物語になっているのです。
キャラムもアレグザンダーも、祖先である赤毛のキャラムも実在の人物であり、「クロウン・キャラム・ルーア」という一族の、ドキュメンタリーを読んでいるかのように。
それはきっと著者アリステア・マクラウドこそが、スコットランド移民の六代目であり、ケープ・ブレトンの、ゲール語を話すハイランド文化のなかで育った人だからなのでしょう。
アリステア・マクラウドがこの物語を書くことは、自然で当たり前で、きっと必要なことでもあったのです。

この物語については、ほんとうにうまく説明できなくて、読むしかない、という感じです。
兄キャラムのこれまでの人生を知るにつけ、はじめは惨めとしか思えなかった彼の現在の境遇に、悲哀と共感をおぼえます。 人にはそれぞれ、やり直しのきかない、人生の物語があるのだと。
ひとつひとつの文章を引用しても、この感慨は伝わらないのだけれども、読了するとすべての描写に意味があったことに気づかされます。
結末、胸につきあげてくる言葉にならない感情は、読了しなければ得られません。

またこの作品は、スコットランドの歴史、そしてカナダの歴史にたびたび触れています。
わたしはそのあたりのことを詳しく知らず、訳者あとがきにある解説をときおり参照しながら読みすすめました。
それでも感動が損なわれることはありませんが、物語の背景をよく知っておくことで、さらに深い読み方ができるのではないでしょうか。
先に訳者あとがきをよく読んでおくのもよし、読了してからスコットランドの歴史やハイランド文化について調べてみるのもよし。 そうして何度でも、くりかえし味わうことのできる作品だと思います。

アリステア・マクラウドの、これまでの全短篇で描かれていたテーマ、ただ生きなければならない人生を生きる者の誇りと、 スコットランド・ケルトというルーツへの愛着。
この長篇では、それらがよりはっきりと前面に打ち出され、切れ味の鋭さを要求される短篇よりも、深く大きく、あたたかく、読者の魂を揺さぶります。

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2006/11/05

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