〜翻訳本はおもしろい〜
<新潮クレスト・ブックス>は、小説、自伝、エッセイなど、ジャンルを問わず”海外の優れた作品”を紹介するシリーズ。 日本ではあまり知られていなかった作家の名前も多いラインナップは、タイトルを見ているだけでも、どれも面白そう。 また洗練されたおしゃれな装幀は、書店の店頭でもふと目にとまります。 このページでは、翻訳本の魅力を伝えてくれる注目のシリーズから、管理人が読了した作品の感想を、まとめてご紹介します。 |
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「アルネの遺品」新潮クレスト・ブックスジークフリート・レンツ 著/松永美穂 訳(新潮社) |
レンツの筆は、最後までわたしの期待を裏切ることはなく、静けさと悲しみに満ちた濁りのない文体が、
読後のいまも、胸に深い余韻を残しています。 舞台はドイツ、エルベ河畔のちいさな港町ハンブルク。 物語は、語り手ハンスが、アルネの遺品の整理をはじめる場面から幕を開けます。 長いあいだアルネとともに過ごした屋根裏部屋で、しかし遺品の整理はなかなか進みません。 フィンランド語文法の本、ボスニア湾のカラー地図、ヨット用の結び目の手本がついた板。 すべてがアルネ少年の姿をハンスの目の前に浮かび上がらせてしまうからです。 木製の、赤白に塗られた小さな灯台の模型を眺めながら、ハンスの回想がはじまります。 一家心中で、たったひとり生き残ってしまった少年、アルネ。 ハンスの父親は、アルネの父親と古い友情で結ばれており、アルネはある冬の日、ハンスの家にひきとられてきます。 無口で仕事熱心な父、やさしく忍耐強い母、責任感があってやさしい長男ハンスに、やんちゃで勝気な弟のラース、女の子らしく気まぐれな妹のヴィープケ。 この家に、新しい家族として迎えられることは、過酷な体験をした子どもにとって、これ以上望むべくもないこと、と誰にも思われました。 実際、両親はアルネをほかの兄妹たちと同じように扱いましたし、長男のハンスは、深い理解と惜しみないやさしさをアルネに示します。 それなのに、アルネはどうして、たった15歳で、死を選ばなければならなかったのでしょう? まるでうすい紗が、物語をふわりと包み込んでいるような雰囲気。 「15歳の少年は、なぜ死を選んだのか」「純粋な魂の悲劇」などというオビのコピーから受ける、 痛みやまぶしすぎる光といった印象とは、まったく異なる雰囲気が、物語の最後まで続きます。 読んでいる間じゅう、よせては返すさざ波のように、やさしさと悲しみとが入り混じって胸に迫り、また遠ざかっていきます。 すべての場面は正確に、手にとることさえできそうに克明に描写されているにもかかわらず、 その光景は一枚の紗がかかったように、少し遠くて静かなのです。 それは「」(かぎかっこ)を使わない文体、17歳という年齢に似合わぬやさしさと落ち着きをそなえたハンス青年の語りと回想、 という仕掛けによるところが大きいと思います。 舞台設定も良いのでしょう。訳者あとがきによると、「エルベ河畔」はこれまでにもよくレンツ作品の舞台として選ばれていたとのこと。 ドイツ北方の川辺の町の、不思議になつかしい風景。そこに住むのは、口数少なく、けれども思いやり深い人々ばかり。 ちいさな町ならではの、仲間意識や連帯感、行き交う人はすべて見知った顔という安心感もあります。 ハンスの父親はこの町で、船の解体工場を営んでいるのです。造船工場ではなくて、もう役目を終えた船の解体工場という設定もまた、 物語にしみじみとした趣を与えています。 脇役もすばらしいです。倉庫管理人のプルノウ。航路標識を整備するドルツ老人。年取った船大工のトルゼン。罪を犯した過去をもつ、警備員カルック。 みんな職人気質で、信頼のおける人たちばかりで、彼らは適度な距離をおきながら、アルネを見守っていました。 とりわけ警備員のカルックと、アルネとの言葉少ない交流は、深く胸を打つものがありました。 それなのに、アルネはどうして、あえて死を選ばなければならなかったのでしょう? たしかに、いじめはありました。聡明で純粋無垢な、まるで聖人のようなアルネ。一家心中という、同じ年頃の誰も想像することもできない、過酷な体験をしたアルネ。 ラースやヴィープケ、それに学校の仲間たちは、そんなアルネを理解することができず、どう接していいかわからず、いじめが起こりました。 けれどもいじめが、アルネの自殺の直接のきっかけではありません。 「15歳の少年は、なぜ死を選んだのか」 一家心中の、たった一人の生き残りという、過酷な運命に耐え切れなかったのか。 若く、あまりに未熟だったたために、誰にも起こりうる試練に耐え切れず、早計にも死を選んでしまったのか。 実は最後まで読んでも、自殺の理由は、はっきりとわかるとは言い難いです。 アルネの気持ちは、わたしにも理解できない部分があります。たぶん、ハンス青年と同じように。 ただ言えるのは、アルネが弱すぎたのではなくて、未熟だったのではなくて。 聡明すぎ純粋すぎたために、彼の魂は15歳にしてもうすでに、あまりにも多くの苦痛を味わって、老いた兵士のように疲れきっていたのでしょう。 感受性がつよく無器用な人間の生きにくさと、けれど人生とはそういうものなのだという諦念と。 そしてこの小説の何よりの魅力は、話の筋や主題より、やはり「雰囲気」、エルベ川の匂いさえ感じとれるような、文体の妙、描写の技にあるのではないでしょうか。 2006/01/02 →Amazon「アルネの遺品 新潮クレスト・ブックス」 |
「シェル・コレクター」新潮クレスト・ブックスアンソニー・ドーア 著/岩本正恵 訳(新潮社) |
アメリカ出身の作家、アンソニー・ドーアの処女短篇集。 孤独な人々の希望を孕む物語、全8篇。さまざまな手触りの作品がおさめられていましたが、 どれも自然への畏怖の念に貫かれており、その描写力には圧倒されました。 ケニア沖の孤島でひとり貝を集めて暮らしている、盲目の老貝類学者の物語「貝を集める人」。 目の見えない老貝類学者が、少年時代、貝に手で触れ、指でかたちをなぞって、その美しさを感じる場面は印象的。 目の見える人間は、とかく視覚に頼りがちなものですが、自然は五感で感じるものなんですよね。 クライマックスの、老貝類学者が貝の毒に侵されながら感じた孤独、その描写は出色です。 ハンターを生業とする男と、死者の記憶を生者に媒介するという不思議な能力をもつ女性の愛の物語「ハンターの妻」。 これはO・ヘンリー賞受賞作とのこと、アンソニー・ドーア作品の中でも、高く評価されている一篇のようで、ほんとうに素晴らしかったです。 幻想的な主題、自然の風景、冬の苛酷さ、生と死の神秘を描ききる筆さばきは、熟練の作家を思わせます。 結末も、美しく希望を感じさせて、素敵でした。 「長いあいだ、これはグリセルダの物語だった」は、何かと目立つ存在で、高校生のときに「金物喰い」を生業とする男と駆け落ちした姉グリセルダと、 地味でおとなしく、ずっと故郷で暮らしつづけ、地元の男と結婚し、母の死に水をとった妹ローズマリーの物語。 淡々とした筆致で描かれているのですが、最後、二十年ぶりに姉に再会したローズマリーがまくしたてる言葉が印象的で、共感しました。 地に足をつけ、一見して平凡な日々を送る人こそ、誰よりも偉大なんだよなあ、と。 「世話係」では、内戦で故郷アフリカを追われ、オレゴン州にたどりつき、金持ちの別荘の世話係になった男と、別荘の主人の娘で耳の聞こえない少女との、心の交流が描かれています。 これは前半の、アフリカ西部リベリアの内戦を描いた部分が、なんとも苛酷で、読んでいて辛かったのですが、 後半の、主人公と少女との交流の場面で救われる、癒しと回復の物語。結びの文章は、胸にぐっときました。 アメリカ人の化石ハンターが、タンザニアの大地を駆ける女性に惹かれ結婚したものの、オハイオでの都会暮らしに心がすれ違っていくさまを描いた「ムコンド」。 主題も構成も、「ハンターの妻」と共通しています。 都会暮らしで、野生の命の輝きを奪われた妻ナイーマは、空をゆくガンの群れを見て、空の神々しさを感じ、やがて空を撮る写真家になり夫のもとを去ります。 現代の都市がどれほど膨張し、野生を消し去ろうとしても、わたしたちの頭上にはいつも、人間の知識の及ばぬ空がひろがっていることに気づかされます。 この作品も終わり方が素敵。おとぎ話かと思えるほどの、美しく希望に満ちた結末です。 こんなにも自然への畏怖の念を感じさせる物語が、アメリカの若い作家によって書かれたというのが意外です。 現代日本にも、こういった主題をとりあげ、描ききることのできる作家はいるのでしょうか? いれば良いのに、とは思いますが。 2006/07/31 →Amazon「シェル・コレクター (新潮クレスト・ブックス)」 |
「灰色の輝ける贈り物」新潮クレスト・ブックスアリステア・マクラウド 著/中野恵津子 訳(新潮社) |
カナダ、ケープ・ブレトン島。 『赤毛のアン』で有名なプリンス・エドワード島を西に望む島、と説明する以外に、日本人にはなじみのない場所が、この本の舞台です。 ケープ・ブレトン島には、スコットランド高地からの移民が多く住み、彼らは漁師や坑夫を生業として、日々を送っています。 けれども時は移り、若者たちは、脈々と受け継いできた血も伝統も捨て去り、都会へと出てゆこうとするのです。 この本は、美しく苛酷な自然と対峙して生きる、ケープ・ブレトン島の人々の、人生の断片を鮮やかに切りとった短篇集です。 はっきり言うと、わたしの好みの小説というわけではありませんでした。 同じく新潮クレストブックスのジークフリート・レンツ『アルネの遺品』のような、静かな美しさを期待して手にとった本でしたが、 このアリステア・マクラウドの短篇集は、手触りがまったく違っていました。 荒々しく、生々しく、あまりに苛酷な人生の断片を、抑制のきいた筆致で物語った、地味な短篇ばかり。 けれども読み始めると、静かだけれども奥底に、魂の熱を感じさせる語り口から目をそらせずに、物語の最後まで、どうしても連れていかれてしまうのでした。 心に否応なく刻みつけられる言葉の数々。 『船』という一篇。長年漁師を続けてきた父が、実は「肉体的にも精神的にも漁師には向いていないのかもしれない」と、ある日突然気づいてしまった青年。 彼の、「自分本位の夢や好きなことを一生追いつづける人生より、ほんとうはしたくないことをして過ごす人生のほうが、はるかに勇敢だと思った」という言葉。 『ランキンズ岬への道』。人里はなれた岬の突端に住む、年老いた祖母を、ある秘密を抱え一人たずねる青年。彼に与えられた運命と、祖母が折あるごとに言った言葉。 「誰も人生は楽なもんだなんて言ってやしないさ。人生というのは、ただ生きていかなきゃならないものだというだけのことよ」 『夏の終わり』の語り手は、立坑を掘る開坑チームのリーダー。 坑夫として世界中をめぐり、そうして得たお金で養い育てた家族と、共有した時間はしかしほとんどなく、 いくどめかの旅立ちの時を迎えても、子どもに、妻に、言うべき言葉の見つからない男の、胸中の涙。 「私には、若い者の言うように、「ありのままにしゃべる」ことができなかった。これからもできそうもない」 こうして抜き出してみれば、ありきたりの言葉かもしれません。でも最初から最後まで読むと、胸につよく迫ってくるのです。 読ませる短篇は、テクニックのある作家にしか書けません。 けれどもこの短篇群に読者がひかれるのは、文章や構成のうまさだけでなく、静けさの奥の熱と悲しみに、魂をゆさぶられるからではないかと思います。 『帰郷』と、『失われた血の塩の贈り物』の二篇は、ほんとうに美しい短篇でした。 遠くはなれてしまった故郷への思い、過ぎ去って二度と戻らない日々、癒されえぬ喪失感。 この地表に、不恰好に這いつくばって生きるしかない人間の、なんと美しいことでしょう。 最後の短篇『夏の終わり』の、ほんとうにいちばん最後におさめられた、十五世紀の詩。 ここには引用しませんが、最後まで読んで、この詩にたどり着いたとき、ほんとうに魂のふるえる思いがしました。 ケープ・ブレトン島に生きる、スコットランド・ケルトの人々の、胸に秘めた誇りに、涙を抑えることができませんでした。 『灰色の輝ける贈り物』、この短篇集の底には、スコットランド・ケルトの、昏さと悲しみとがひそやかに流れているような気がします。 「ウェールズのケルトは余裕がある、アイルランドのケルトも楽天的だ。しかしスコットランドのケルトだけが昏く悲しい」 これはフィオナ・マクラウド 著/荒俣宏 訳『ケルト民話集』(ちくま文庫)の中にでてくる、著者の言葉です。 学生時代に読んで、あまりの救いのなさに物語の魅力を理解できなかった、この『ケルト民話集』を、今こそ読み返してみたいと思います。 →「ふたりのマクラウド〜スコティッシュ・ケルトの誇り〜」はこちら 2006/04/18 →Amazon「灰色の輝ける贈り物 (新潮クレスト・ブックス)」 |
「冬の犬」新潮クレスト・ブックスアリステア・マクラウド 著/中野恵津子 訳(新潮社) |
原本は『Island』という、2000年1月に出版されたアリステア・マクラウドの全短篇集。 邦訳版では、前半と後半の2冊に分けて、新潮クレスト・ブックスより、『灰色の輝ける贈り物』、『冬の犬』として刊行されました。 『Island』は、カナダ東端の厳冬の島ケープ・ブレトンを舞台に、スコットランド移民の人々の、自然に根ざした誠実な生き様を、あざやかに切りとって描き出した短篇集。 『灰色の輝ける贈り物』を読み、好きなタイプの小説ではないにしろ、その静かな熱と迫力に圧倒されて、 これは『Island』後半の短篇群『冬の犬』も、読まないわけにはいかないだろうと感じました。 またこの読書日記では、スコットランドの幻想作家フィオナ・マクラウドの短篇集『ケルト民話集』、『かなしき女王』についても紹介していますが、 これらの本で描かれるスコティッシュ・ケルトの誇りと哀しみに感銘を受け、現代を生きるケルトの末裔の姿を知りたい、との思いもありました。 アリステア・マクラウドの作品は、大上段にかまえ、声高に問題提起をしているわけではありませんが、 読むうちに、現代日本に生きるわたしたちの価値観や生き方について、考え直すことを迫られます。 書かれていることのすべてが、頭で考えられたものではなく、ほんとうに本物で、大地に根ざして生きる人間の、真実の記録だからなのだ思います。 『冬の犬』の短篇群は、そのどれもが切実で重い内容を含んでいます。 冒頭に収録された、「すべてのものに季節がある」は、なかでもとりわけ美しい一篇。 少年の頃の、クリスマスの日々の、短い回想。 ケープ・ブレトン島の冬景色。初雪の感触。サンタクロースへの祈りにも似た憧憬。 クリスマスの食卓のため殺される家畜や、そりをひく馬の息づかい。 遠いところで働いている長兄の帰りを、待ちわびる家族の姿。 ほんの十五分ほどの通勤バスの中で読んでしまえる、ほんとうに短い作品なのですが、読み終えて涙をこらえるのに苦労したほど、描かれた光景の美しさに打たれました。 アリステア・マクラウドの文章の上手さにも、唸らされます。 体調を崩し、徐々に弱っていく父の姿を、帰省して久しぶりに目の当たりにした長兄の驚き。 その長兄が、クリスマスのミサの折、近所の人に「お父さんはどうしてるかね?」とたずねられ、答えを返したときの描写。 「「ああ」と兄は言う。「ああ」としか言わない。」 この一行だけで、もうすべてがわかる、わかってしまうという文章。 行間を読ませる、無駄のない、抑制のきいた筆致。 最後の父親の言葉が、読者の胸を貫きます。 「誰でもみんな、去ってゆくものなんだ」と父が静かに言う。私は父がサンタクロースのことを話しているのだと思っている。 「でも、嘆くことはない。よいことを残してゆくんだからな」「完璧なる調和」は、ゲール語民謡最後の歌い手と言われる一人の男の人生を通して、スコティッシュ・ケルトの誇りと哀しみを謳いあげた一篇。 『灰色の輝ける贈り物』では、暗に仄めかされる程度だったスコットランド・ハイランダーのルーツと、ケルトの伝統といったテーマが前面に出ていて、 ああ、やはりアリステア・マクラウドの言いたかったことは、これだったんだなあと思いました。 アリステア・マクラウドは、その名前からも察せられるとおり、スコティッシュ・ケルト、スコットランド・ハイランダーの末裔であるからです。 「完璧なる調和」は、主人公アーチボルドが、無器用に、朴訥に、けれど誠実に生きる姿が、つよく胸を打ちます。 そして、アーチボルドのうたうゲール語の歌の力づよさと美しさが、深く印象に残ります。 この一篇も、最後の一言に泣かされます。アリステア・マクラウドの作品は、終わり方にいつも、叙情的な余韻があります。 最後の一篇「クリアランス」も、スコットランド・ハイランダーのルーツを強調したテーマになっています。 クリアランスというのは、18〜19世紀、牧羊のためにスコットランド・ハイランドに住む人々を強制的に立ち退かせた「ハイランド・クリアランス」という歴史的事実のことで、 ケープ・ブレトン島のスコットランド移民たちは、このクリアランスで故郷を追われた人々の子孫なのです。 新天地で、家族が幸せになれると信じ、土地を切り拓き、作物や家畜を育て、漁に出て…ひたすら前に進んできた人々が、 島の観光地化や、パルプ用材のための木の伐採、自然保護運動や漁獲割当量の変更など、さまざまな理由で、それまでの暮らしを続けられなくなっている現状が描かれています。 最後あたりの、主人公のモノローグには、打ちのめされます。 「俺たちは、こんなことになるために生まれてきたんじゃない」時代の波に押し流されようとしている、誇り高き民族の末裔の姿に、わたしたち日本の読者は、考えさせられることが多いはずです。 これらの短篇で描かれたテーマを、より深く追求し、カナダで大ベストセラーとなった、アリステア・マクラウド唯一の長篇『彼方なる歌に耳を澄ませよ』を、 続けて読んでみたいと思っています。 →「ふたりのマクラウド〜スコティッシュ・ケルトの誇り〜」はこちら 2006/06/03 →Amazon「冬の犬 (新潮クレスト・ブックス)」 |
「彼方なる歌に耳を澄ませよ」新潮クレスト・ブックスアリステア・マクラウド 著/中野恵津子 訳(新潮社) |
9月、黄金色の季節のなか、ひとりの男が車を飛ばしています。
彼は毎週土曜日、トロントの安アパートに住む兄を訪ねる、恒例の旅をくりかえしているのです。 男は裕福な矯正歯科医。しかし兄は、ダウンタウンの裏通りの薄汚いアパートで、アルコールに溺れ、世間から見捨てられた者として暮らしています。 兄への愛情と罪悪感、兄の部屋を訪れることを憂鬱に感じる自分への疚しさと。 兄が口ずさむゲール語の歌に呼び覚まされた思い出は、彼ら一族のルーツにまで遡り、兄弟の生い立ち、ふたりの人生がこれほどまでに違ってしまった理由が明かされていきます。 18世紀末、スコットランドからカナダ東端の島ケープ・ブレトンに渡った、赤毛の男の子孫。彼らは自分たちのルーツを、身体の中に流れる血を、けっして忘れることはありません――。 この作品は、「クロウン・キャラム・ルーア(赤毛のキャラムの子供たち)」と呼ばれる一族の歴史を、大きな時の流れの中でとらえて描ききった、著者渾身の大長編です。 いまこの読書日記を書くために、また最初からページを繰りなおしていると、一度めに読んだときには何とも思わなかった文章にも、涙が込みあげてきます。 何と言うか、劇的でも何でもない物語なのです。 語り口は淡々としていて、それぞれの人生と、スコットランド・ハイランダーの歴史、そして現在のトロントでの様子が、交錯して描かれます。 物語の始まりは、トロントの安アパート。アルコール依存症の兄キャラムの姿はひどく惨めで、弟アレグザンダーが裕福であるだけに、なぜ、という疑問がつのります。 キャラムは弟を今も「ギラ・べク・ルーア(小さな赤い男の子)」と呼び、懐かしい思い出を語り、ゲール語の望郷の歌をうたいます。 兄の歌で呼び覚まされたアレグザンダーの記憶から、彼ら兄弟の生い立ちが徐々に明かされていくのですが、これが、架空のこととは思えないほどにリアルで、力強い物語になっているのです。 キャラムもアレグザンダーも、祖先である赤毛のキャラムも実在の人物であり、「クロウン・キャラム・ルーア」という一族の、ドキュメンタリーを読んでいるかのように。 それはきっと著者アリステア・マクラウドこそが、スコットランド移民の六代目であり、ケープ・ブレトンの、ゲール語を話すハイランド文化のなかで育った人だからなのでしょう。 アリステア・マクラウドがこの物語を書くことは、自然で当たり前で、きっと必要なことでもあったのです。 この物語については、ほんとうにうまく説明できなくて、読むしかない、という感じです。 兄キャラムのこれまでの人生を知るにつけ、はじめは惨めとしか思えなかった彼の現在の境遇に、悲哀と共感をおぼえます。 人にはそれぞれ、やり直しのきかない、人生の物語があるのだと。 ひとつひとつの文章を引用しても、この感慨は伝わらないのだけれども、読了するとすべての描写に意味があったことに気づかされます。 結末、胸につきあげてくる言葉にならない感情は、読了しなければ得られません。 またこの作品は、スコットランドの歴史、そしてカナダの歴史にたびたび触れています。 わたしはそのあたりのことを詳しく知らず、訳者あとがきにある解説をときおり参照しながら読みすすめました。 それでも感動が損なわれることはありませんが、物語の背景をよく知っておくことで、さらに深い読み方ができるのではないでしょうか。 先に訳者あとがきをよく読んでおくのもよし、読了してからスコットランドの歴史やハイランド文化について調べてみるのもよし。 そうして何度でも、くりかえし味わうことのできる作品だと思います。 アリステア・マクラウドの、これまでの全短篇で描かれていたテーマ、ただ生きなければならない人生を生きる者の誇りと、 スコットランド・ケルトというルーツへの愛着。 この長篇では、それらがよりはっきりと前面に打ち出され、切れ味の鋭さを要求される短篇よりも、深く大きく、あたたかく、読者の魂を揺さぶります。 →「ふたりのマクラウド〜スコティッシュ・ケルトの誇り〜」はこちら 2006/11/05 →Amazon「彼方なる歌に耳を澄ませよ (新潮クレスト・ブックス)」 |
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