■おすすめ英米女流文学

〜優雅な世界をのぞいてみると〜


少しだけ古い、アメリカやイギリスの女流文学。そこにはお茶会、お城、舞踏会など、現代生活からかけはなれた、女性の憧れとも言える背景が広がっています。
でもその優雅な世界をのぞいてみると、そこにはやっぱり今と変わらない、少女たちの悩みや、女性ならではの悪意や、生きることの悲しみ―そしてもちろんおかしみも―があるのです。
このページでは、作風は違うけれどもそれぞれに面白い、19世紀初頭から20世紀前半の英米女流文学を紹介します。



↓クリックすると著者紹介、書籍紹介に飛びます。


●イーディス・ウォートン (Edith Wharton)

1862-1937。
ニューヨークの富裕な上流階級の家に生まれる。
1905年、ニューヨークの上流社会を批判的に描いた『歓楽の家』がベストセラーとなる。
1921年『無垢の時代』で、女性として初めてピュリッツァー賞を受賞。この作品は1993年、マーティン・スコセッシ監督により『エイジ・オブ・イノセンス』として映画化もされた。
他の作品に『イーサン・フローム』など。


「幽霊」

イーディス・ウォートン 著/薗田美和子 山田晴子 訳(作品社)
幽霊
 ながいこと表のよろい戸が下りたままの、イタリアの古い屋敷を見て、いぶかしく思ったことはないだろうか? 聖職者の表情と似通っていて、裏では告解者がひそひそと秘密を打ち明けているのに、平静で沈黙をまもり、しかもいわくありげな、無表情な仮面のような外観。 ほかの屋敷は内側の日々の営みをはっきりと伝えている。そうした屋敷の表側は、表面まぢかで営まれている生活を手に取るように、表情豊かに表わすものだ。だが、狭い通りにある古い館と、糸杉にこんもりと覆われた丘の上の別荘(ヴィラ)は、死の世界のように足を踏み込めないところである。

『幽霊』44ページより、「祈りの公爵夫人」冒頭部分の引用

収録作品:カーフォル/祈りの公爵夫人/ジョーンズ氏/小間使いを呼ぶベル/石榴の種/ホルバインにならって/万霊節

イーディス・ウォートンはニューヨーク出身の作家で、1921年『無垢の時代』でピュリッツアー賞を受賞しています。
『幽霊』は、さまざまな手触りの作品を描きベストセラーも出しているウォートンが、実は熱心に書き続けていたという幽霊物語を集めた短篇集です。

「カーフォル」「祈りの公爵夫人」は、ゴシック小説を連想させる古い館(まさにカバー写真のような)で、過去に起きた悲劇が明らかになります。 その悲劇というのが、ゴシック小説的で、上流階級で大金持ちで嫉妬深い夫が、妻を館の外に連れ出すことを嫌い、やがて妻の密通を疑い…という展開。中世の物語を読むときのようなタイムスリップ感が味わえます。
「ジョーンズ氏」「小間使いを呼ぶベル」は、やっぱり大きな屋敷が舞台で、姿の見えない執事や、死んだはずの小間使いの気配が、そこかしこに感じられ…という話。個人的には「小間使いを呼ぶベル」が好きでした。お屋敷に雇われている召使の暮らしぶりが垣間見えます。
「石榴の種」は、この短篇集中では現代的な印象で、夫に届く差出人のわからない手紙について、妻が感じ始める恐怖のお話。語り口は心理小説的でもあり、でもやっぱり幽霊物語として仕上がっています。
「ホルバインにならって」は、かつては社交界で華やかな存在だった老いた紳士が、意識が混乱するようになっても、まだ自分が若いと信じ込み、そこに皮肉な悲劇が待ち受けて…。若さにしがみつこうとする老いの哀しみがあります。
「万霊節」は、大きなお屋敷の女主人が、足を怪我して眠られぬ夜をすごし、朝を迎えてみると、屋敷にたったひとり取り残されていて…という話で、この女主人が感じる孤独と静寂のおそろしさの描写が出色です。

ウォートンが書いた幽霊物語は、古めかしく、品があり、静謐。 結末が明示されることはなく、すべて読者の想像にゆだねられています。わたしは概してこのタイプの小説が好きですが、好みは分かれるかもしれません。 この手法は、恐怖や不安といったものを、あからさまにではなく、品よく、読者にじわじわと感じさせるのに有効なのだと思います。
この話の雰囲気は、デ・ラ・メアの幻想短篇に通じるものがあるなあ、と思ったら、ここに訳出された作品のほとんどが収録されている『Ghosts』(1937)は、まさにそのウォルター・デ・ラ・メアに献呈されたのだそうです。 巻末に付された『Ghosts』(1937)の序文では、ウォートンはデ・ラ・メアのことを「私が一級と太鼓判を押す、現代ただひとりの幽霊を呼び出すひと」と書いています。
この本には幽霊がはっきり登場するわけではなくて、ただ気配が感じられるだけなのですが、『Ghosts』(1937)の序文を読めば、作者は幽霊物語を、「ゴースト・フィーラー(幽霊を感じるひと)」に向けて書いていたことがわかります。
どの短篇も、静かだけれど(静かだからこそ?)読者の怖い想像をかきたてるような語り口で、想像がふくらめばふくらむほど恐ろしい。読者に「不可思議なものの存在を感じ」てもらうという作者の意図は、見事に成功していると思います。

またこの本、上質の幽霊物語としてだけでなく、昔の上流階級の人たちの暮らしぶりを垣間見るという楽しみ方もできます。
大きなお屋敷には寝室、客間、図書室、朝の間などなど、いろんな用途の部屋がたくさんあること。召使にも家事女中や小間使い、料理係などといった違いがあるらしいこと。読んでいるうちにこういうことがわかって、なかなか興味深いです。
ウォートンはニューヨークの富裕な上流階級の生まれで、莫大な遺産を相続して広大な屋敷を購入したということなので、こういうお金持ちならではの描写も、なるほどと頷けます。

→「ウォルター・デ・ラ・メアの本」はこちら

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●エリザベス・ボウエン (Elizabeth Bowen)

1899-1973。
17世紀以来のアングロ・アイリッシュ地主階級ボウエン一族の末裔として、アイルランド、ダブリンで生まれ、その後まもなくイギリスへ渡る。
アイルランドにある一族の城ボウエンズ・コートを維持しながら、イギリスを本拠地として二度の世界大戦の戦火をくぐり、73歳で没するまでに10編の長編小説と約90編の短編小説を書いた。
最後の長編『エヴァ・トラウト』は1970年のブッカー賞候補となる。
邦訳長編に『日ざかり』(吉田健一 訳)、 『パリの家』(阿部 知二・阿部 良雄 訳)がある。


「あの薔薇を見てよ」

ボウエン・ミステリー短編集
エリザベス・ボウエン 著/太田良子 訳(ミネルヴァ書房)
あの薔薇を見てよ―ボウエン・ミステリー短編集 (MINERVA世界文学選)
 色鮮やかな花々に覆われた家を見るなり、ルウはこう叫んだ。オープン・カーの中だったから、首がねじれるまで見送ったものの、車が道を曲がると、家はもう見えなくなった。すぐわかった、エドワードは早く曲がりたくて、わざと加速したのだ。 薔薇に囲まれたあの家に嫉妬したのだろうか――屋根は切り妻式になっており、正面は平らな家で、暗い窓が無表情に花々のあいだからこっちを見ていた。音もなく燃える炎のような華やかな庭は、まるで幻影のように二人の心に焼きついた。

『あの薔薇を見てよ』1ページより、「あの薔薇を見てよ」冒頭部分の引用

収録作品:あの薔薇を見てよ/アン・リーの店/針箱/泪よ、むなしい泪よ/火喰い鳥/マリア/チャリティー/ザ・ジャングル/告げ口/割引き品/古い家の最後の夜/父がうたった歌/猫が跳ぶとき/死せるメイベル/少女の部屋/段取り/カミング・ホーム/手と手袋/林檎の木/幻のコー

『日ざかり』や『パリの家』で高く評価されながらも、その後邦訳出版が続いていなかったアングロ・アイリッシュの作家エリザベス・ボウエン。
この本は、そんなボウエンの珠玉の短編集。収録作品の多さからもわかるように、どれも短い作品ですが、一読忘れがたいものばかりです。
副題に「ミステリー」という言葉が使われていますが、これは日本で一般的に言われるミステリーというジャンルを指すのではなく、ミステリアスな、謎めいた作品集という意味でうけとったら良いのかなと思います。

表題作「あの薔薇を見てよ」は、美しくも、ひやりとさせられる作品。
ルウとエドワードがドライブの途中で見かけた、薔薇が美しく咲き誇る家。車が故障して、この家に助けを求めて訪ねていくことになるのですが、そこには可動式ベッドに横たわる、障害をもつ少女ジョゼフィーンがいます。
ルウはここで車の手配をするエドワードを待つあいだお茶を頂くことになるのですが、美しすぎる薔薇には秘密が隠されていて…。
薔薇の庭、少女、お茶とスモモの手作りジャム、素材は優雅で乙女的なのに、辛辣な眼差しで描写される人の心のおそろしいこと。ジョゼフィーンの存在感がことに際立っていて、ボウエンの描く少女の魅力の一端がうかがえます。この一編で、ボウエンの謎めいた世界にするりと引きこまれてしまいます。
「アン・リーの店」「針箱」「割引き品」は、帽子店の経営者、裁縫師、女家庭教師という、自活する女性像を描きながら、そこに人生の皮肉を絶妙なかたちでにじませています。「針箱」なんか、最高にうまい!と思う。最後の一言も絶妙。
「割引き品」の謎めいた女家庭教師が、楽しくあかるいオースティンの作品(しあわせな女家庭教師が登場する)『エマ』を読んでいるのも、さりげないけど見逃せません。
ひやりと、ではなく、はっきりと怖いのが「猫が跳ぶとき」。これは、実はホラーとかあまり怖がらなくなってしまったわたしも、読んでいるあいだじゅう、ずっと怖かったー!
過去に凄惨な殺人があったお屋敷に、新しい一家が暮らしはじめて、友人たちを招いて楽しく過ごそうとしますが、殺人を犯した前当主の名がハロルド、新しい当主の名もハロルド、この符号から、だんだんみんなが恐怖を感じ始めて…。
幽霊が出るとかではないのです、こんなふうに感じ、行動する、人の心が怖いのです…。
「マリア」「チャリティー」「ザ・ジャングル」「少女の部屋」「カミング・ホーム」は、ボウエンの描く少女の魅力にあふれています。 自己中心的で、ときにエキセントリックで、ぜんぜん可憐じゃない少女たち。男性作家には絶対に描けない、これぞ、少女の真実の姿だと思う。
「林檎の木」は、幽霊物語であり、少女の物語でもある、とりわけ美しい一篇。 在郷地主のサイモンは、まだ19歳になるかならずの子どもと結婚し、友人たちを驚かせます。「妖精めいた」佇まいの妻マイラには、誰にも言えない秘密がありました。 少女時代のマイラの寄宿学校での生活、友情、その友情を軽率に踏みにじったこと、そして自殺したひとりの少女。マイラはサイモンと結婚しても、何ものかに憑かれて苦しんでいました。その何ものか、というのが…。
少女、寄宿学校、幽霊、こういった素材の扱い方が実に巧みで、けっして感傷的ではないのに、怖くて美しくて哀しいイメージに圧倒されます。

ボウエンの小説もまた、ウォートンのように、結末も、ちいさな謎も、明示されることはありません。 読者はどんな些細な描写も読み飛ばすことを許されず、ひとつひとつ、謎を自分で読み解いていかなければなりません。
でもこれって、本好きとしては腕が鳴るというか、とても面白いのです。
そしてボウエンの魅力は何と言っても、淡々とした語り口で、辛辣なことがさらりと書かれているにも関わらず、どこか謎めいた夢を見てでもいるような、不思議な読み心地にあります。
ボウエン・コレクションを紹介する国書刊行会のリーフレットには、小池昌代氏がこう書いていらっしゃいます。
ボウエンの作品は辛らつな真珠だ。淡々と進む筆致のなかに、謎が、真実が、詩が仕掛けられてある。(中略)人間を見つめる目は、容赦がないが、それでいて作品全体は、柔らかな光にくるまれている。…(以下略)

「ボウエン・コレクション」国書刊行会のリーフレットより
小池昌代氏の推薦文から抜粋

「辛らつ」なんだけれど、「柔らかな光にくるまれている」という、この読み心地をじっくり味わうことが、ボウエン作品の大きな魅力のひとつではないでしょうか。

→ジェイン・オースティン『エマ』の紹介はこちら

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●アントニア・ホワイト (Antonia White)

1899-1980。
ロンドンに生まれる。本名はアイリーニ・ボッティング。
アントニアは9歳から15歳までをロンドン郊外の聖心修道院付属の寄宿学校で過ごしたが、『五月の霜』はこの時期の体験をもとに書かれた。
退学後、コピーライターや女優、ジャーナリストなどとして活躍。結婚・離婚を3度経験。
『五月の霜』(1933)は4部作の第1作にあたり、上記『あの薔薇を見てよ』の著者エリザベス・ボウエンは、ヴィラーゴー版の序文でこの本を「少女のスクール・ストーリーのなかで、古典として残る唯一の作品」と賞賛している。


「五月の霜」

アントニア・ホワイト 著/北條文緒 訳(みすず書房)
五月の霜 (lettres)
 次の日曜日の午後、助修女が来て、談話室に面会の人が来ています、と告げたとき、ナンダは両親と別れてまだ五日しかたっていないということが信じられなかった。それほど、一足飛びに大人になった感じがした。初めて制服を着て助修女のあとをしとやかに歩きながら、見慣れないこの立派な姿がわたしだと両親はわかるだろうか、とナンダは思った。 それほど、この五日間で、ナンダは、縫い目をほどかれ、改めて縫い直され、違うかたちに仕立てられていた。

『五月の霜』32ページより、第2章冒頭部分の引用

あらすじ:主人公ナンダ・グレイは、カトリックに改宗した父の方針に従い、キリストの五傷修道院付属の寄宿女学校に入学する。カトリックの厳格な規律に則った学校生活のなかで、少女たちは信仰心を篤くし、自我を抑えるよう教育される。 ゆたかな感受性と想像力をもつナンダは、カトリックの裕福な旧家出身のレオニーと出会って親友となり、友人関係や階級の問題に悩みながら、徐々に自我が目覚めていくのを感じていた…。

著者アントニア・ホワイト自身の、カトリック寄宿学校での体験をもとにして書かれた、少女の成長物語。 印象的な少女像を多数描いているエリザベス・ボウエンも賞賛したという「少女のスクール・ストーリー」とは、一体どんなものなのでしょう?

とにかく、当時のカトリックの寄宿女学校の、日本人には理解しがたい、厳しい規律にしばられた生活というのが興味深かったです。
現代日本でならプライバシー侵害、いや人権侵害なんじゃないかと思える厳しい指導に、読んでいて憤りを感じることもしばしば。
本好きのわたしとしては、たとえば読書についての制限が気になりました。アンドルー・ラングの『妖精物語』やキャロルの『不思議の国のアリス』といった、軽い読み物系は、一学期に2、3回休日にしか読むことを許されず、基本的には聖人伝やら伝道者たちの書簡なんて面白くなさそうなものを読まなければいけなかった、とか。
ナンダが、父親からクラスメートに贈るよう渡された、挿絵入りのケネス・グレアムの『夢の日々』は、ちょっとページを開いて、つい読みすすめてしまったために、担任教師であるマザーに取りあげられてしまいます。マザーは、あのケネス・グレアムの作品に対して(!)、「病的で、不健康で、少々俗悪」とまで言い切るのです。

またこの学校では特定の人とのあいだに友情を育てることをよしとせず、二人きりで行動することは禁じています。だからナンダが、親友のレオニーと仲良くすることも、マザーたちは良く思っていないのです。
さらに、同じことをしていても、カトリックの旧家出身のレオニーなら許されるのに、プロテスタントからの改宗者であるナンダだけが厳しく叱られたり…。
親にあてた手紙は検閲されるし、マザーたちに似せた戯画を描いた生徒は放校処分になるし、ナンダの休暇中にもマザーは手紙をよこして、自己否定と、階級の違う友人とのつきあいをやめることを迫ります。
神への信仰に純潔の身を捧げているマザーたちの、この生徒たちへの指導は、どう読んでも意地悪としか思えない…。厳しいカトリックを信仰しているがゆえなのだろうけど、もしかして底にはちらりと、ほんとうの悪意が潜んでいるのかも…?なんて考えてしまいます。
当時の英国のカトリック教徒たちの、ほんとうの気持ちは、結局わたしにはわからないのだけれど、ふつう小説の主人公で、想像力ゆたかな少女たちといえば、『小公女』にしても『赤毛のアン』にしても、必ずその想像力に助けられ、幸せをつかむものなのに、ナンダは想像力を殺すよう、自我を捨てるよう、強制されるのです。なんて痛々しい…。

といっても、この物語はもちろん、ただ痛々しいだけではありません。
この寄宿学校でとりおこなわれる、当時のカトリックの典礼の厳かな美しさ。神の栄光をたたえる儀式の、神秘的な雰囲気には、ナンダもいつも感動しています(プロテスタントではカトリックのようなミサは行われないから)。
カトリックの旧家出身でお嬢様であるはずのレオニーの、ちょっと少年のようなキャラクターは魅力的で、ナンダの学校生活もレオニーとの交友によって彩りを与えられます。
レオニーや、学校の先輩たち、先生であるマザーたちの行動や考えから窺い知る、カトリック教徒の生き方というのも、理解しがたいながらも興味深いものがあります。

訳文は読みやすく、大人の鑑賞にもたえるヤングアダルト小説と言えるでしょうか。原題は『FROST IN MAY』。蕾の季節の少女に与えられる霜の試練。
印象的なカバー装画は、アドルフ・ディートリヒ「縞のエプロンの少女」で、装幀と本の内容の、雰囲気がぴたりと合っています。

→ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』の紹介はこちら
→ケネス・グレーアム『たのしい川辺』の紹介はこちら
→バーネット『小公女』の紹介はこちら
→モンゴメリ『赤毛のアン』の紹介はこちら

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●キャサリン・マンスフィールド (Katherine Mansfield)

1888-1923。
ニュージーランド生まれ。少女時代から作家を目指してロンドンに移る。
チェーホフに学んだ表現技法は2度目の結婚後に開花し、短編集『園遊会、その他』(1922)は高い評価を受けた。作家としての地位も確立され、ヴァージニア・ウルフからは好敵手と目されたが、翌年34歳の若さでこの世を去った。
他の短編集に『幸福、その他』(1920)、『鳩の巣、その他』(1923)などがある。


「マンスフィールド短編集」

安藤一郎 訳(新潮文庫)
マンスフィールド短編集 (新潮文庫)
 それで、ついに、天気はまったく上々となった。たとえあつらえたとしても、それ以上、園遊会(ガーデン・パーティー)にもってこいの日は得られなかったでろう。風はないし、暖かで、空には一点の雲もなかった。ただ空の青さに、ときどき初夏の頃に見るように、明るい金いろの靄がうすくかかっていた。 園丁はもう夜明けから立ち働いて、芝生を刈ったり掃いたりして、芝草と、前にヒナギクのあった黒い平らな薔薇形の花壇までが輝くようになった。

『マンスフィールド短編集』8ページより、「園遊会」冒頭部分の引用

収録作品:園遊会/パーカーおばあさんの人生/新時代風の妻/理想的な家庭/声楽の授業/小間使/ブリル女子/大佐の娘たち/初めての舞踏会/若い娘/船の旅/鳩氏と鳩夫人/見知らぬ者/祭日小景/湾の一日

ウォルター・デ・ラ・メアとも親交があったというキャサリン・マンスフィールド。
この本は、マンスフィールドが作家としての地位を高めた短編集『園遊会、その他』(1922)を訳したものです。

「園遊会」は、マンスフィールドの代表作。華やかな園遊会の日、心浮き立つローラは、近所の貧しい荷馬車屋の男が今朝事故死したことを知り、皆に園遊会をとりやめるよう言うのでしたが…。 少女の繊細な感受性、その感受性が初めて感じた「人生」を、鮮やかに切り取った一篇。「彼女は、カンナ百合の燃えたつ熱で自分を温めようとするかのように、そこへしゃがみこんだ。それらの百合が自分の胸の中に生えて、指に、唇にあるように感じた」など、詩情に満ちた美しい表現に、はっとさせられます。読後も余韻に心がふるえるようでした。
「パーカーおばあさんの人生」は、「園遊会」の、これから人生を生きてゆく少女の風景とは対照的に、すでに長い人生を歩んできたパーカーおばあさんの「つらい暮し」が語られます。 そのつらさは、ほんとうに慰めようもないつらさ。人の一生って、こういうものなのだろうけれど…結びの部分であふれ出る、おばあさんの悲哀といったら。
「理想的な家庭」では、パーカーおばあさんのように貧しくはない裕福な紳士の、「理想的な家庭」と人に言われる一家の主人の、老境の悲哀と幻滅が語られます。34歳の若さで亡くなったマンスフィールドが、どうしてこんなに胸に迫る人生の悲哀を書けたものか…天才、という言葉を思い浮かべずにはいられません。
「新時代風の妻」「声楽の授業」「ブリル女子」「鳩氏と鳩夫人」などの作品では、マンスフィールドの人間に対する皮肉な眼差しを読み取ることができます。
「声楽の授業」の書き出しの部分、「絶望―冷たく、鋭い絶望―を残酷なナイフのように胸深くひそめて、ミス・メドウズは、学校職員の帽子をかぶりガウンをつけて、小さなタクトをもって、音楽堂へつづく寒い廊下をふんでいった」など、ミス・メドウズの、生徒たちに意地悪してやりたいという気持ちが、ひしひしと伝わってきます(^^;)。こういう作品を読むと、マンスフィールドがきらきらした叙情的なものばかりを見ていたわけではないことがわかります。
「初めての舞踏会」「若い娘」「船の旅」などの作品は、「園遊会」同様、少女の鋭い感受性や微妙な心の揺れが見事に描かれています。やっぱり真実の少女を書くなら、女性作家の筆によらなければならないと思います。
「湾の一日」は、風景描写が秀逸で、人物の心理と背景が織りあわされて、とりわけ美しい詩情に満ちています。

マンスフィールドの作品は文学的にとても重要なのだろうと思うけど、現代日本の女性としては、当時のイギリスの中上流階級の風俗が垣間見えるのも、なんとも面白いです。 「園遊会」の、ローラの家の暮らしぶりは優雅で、なんてお金持ちなんだろうと感心するし(現代日本ではあり得ないだろうと思う)、「初めての舞踏会」では、昔の文学作品にたびたび登場する舞踏会というものが、どんなものだったかよく分かって楽しい。
文学作品と肩肘張らず、こういう読み方で親しんでみるのも良いのではないでしょうか。

さて、この文庫のカバー装画、品の良い美しいコラージュは、わたしが惹かれているアーティスト勝本みつるさんの作品。
ネットのレビューなど見ていると、改版の前の、著者マンスフィールドの写真があしらわれた表紙が人気のようですが、勝本みつるさんによる新しい装いも、マンスフィールドの作風とよく調和していると思います。

→勝本みつるさんの作品集の紹介はこちら
→「ウォルター・デ・ラ・メアの本」はこちら

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「マンスフィールド作品集」

大澤銀作 訳(文化書房博文社)
マンスフィールド作品集
それが何んであるか言い難いのです。病気、貧困、死のような、私達すべてのものが知っている悲しみのことを言っているのではないのです。そうです、それらとは違ったものなのです。それはそこにあって、深い、深い奥底にあって、人の呼吸のように人の一部となっているのです。いかに熱心に働き疲れても、手を止めさえすれば、それがそこにあって待っているのがわかるのです。 私はしばしば誰もが同じことを感じているのかしらと思うのです。人には決してわかりません。しかし、彼の美しい、楽しそうなかわいい歌の奥底に、私が聞いたものが、まさにこの―悲しみというのか?―ああ、何んと言ったらいいのか?―であったということは、不思議なことではありませんか。

『マンスフィールド作品集』126〜127ページより、
「カナリヤ」結尾部分の引用

収録作品:園遊会/一杯のお茶/幸福/人形の家/小さな女の子/船の旅/蠅/カナリヤ/初めての舞踏会/新婚旅行/風が吹く/いのんど漬

キャサリン・マンスフィールドの作品集。上記に紹介している新潮文庫の『マンスフィールド短編集』収録作品と、重複しているものもあります。誤植が多いのが残念。訳は、新潮文庫のものより硬いという印象があります。
この本は、『Collected Stories of Katherine Mansfield』(Constable; 1945)の中から、12編を精選して訳出したものです。

「園遊会」「船の旅」「初めての舞踏会」は、新潮文庫の『マンスフィールド短編集』にも収録されている作品。やはり「園遊会」は、何度読みかえしても素晴らしいと思う。
「一杯のお茶」「幸福」は、既婚女性の微妙な心理を描いた作品で、何とも上手い、と思わずにはいられません。
「一杯のお茶」のローズマリー、何不自由なく暮らしているけれど、決して美人ではない。骨董店であまりに高価な素敵な小箱を買うことができなくて、みじめな気持になっていたところを、貧しいみすぼらしい身なりの娘がお金をめぐんでくれと声をかけてくる。
彼女を家へ連れて帰り、親切に接してやることで、優越感を満たそうとするが、そこへ夫が帰ってきて、ローズマリーに言うのだ。「あの子ときたらひどく驚くほどきれいじゃないか。」
そのあとすぐに、ローズマリーは金を渡して娘を帰らせてしまう。結びは、ローズマリーが夫にたずねる科白。「私、きれい?」…これを、昂るでもなく淡白な筆致でつづるところが、女として、唸らされる。
「小さな女の子」も、こんなに上手く女の子の父親への気持ちを表現できるものかと思うし、「蠅」は、息子を失った老いた父親の心理がつづられていて、ほんとうに、34歳で逝ったマンスフィールドが、なぜこんな人生の悲哀を、渋く描けたものかと驚くほどです。
「新婚旅行」も、タイトルどおり幸せの只中にある二人が描かれますが、そこに「人生」が、「苦悩」が、すっとさしはさまれて、しみじみ考えさせられる。
「風が吹く」は、「意識の流れ」と呼ばれる手法で描かれたものなのでしょうか、どこかヴァージニア・ウルフの作品も思い起こさせます。
「いのんど漬」は、すれ違い、わかりあえない男女の心理を描いており、結尾の部分などマンスフィールドの皮肉な眼差しを感じます。こういう視点がないと、ほんとうにおもしろい小説は書けないのだろうなと思う。

わたしが好きだなと思ったのは、「人形の家」
比較的裕福なバーネル家の姉妹と、彼女等の通う学校で、いつも仲間はずれにされているケルヴィ姉妹。ケルヴィ姉妹は貧しい洗濯女の子どもで、父親の所在もはっきりせず、同級生の母親たちからさげすまれ、子どもたちも同様にケルヴィ姉妹をばかにして、話しかけることもしません。
バーネル家に届いた豪華な「人形の家」を、同級生たちがもてはやし、みんながそれを見物に行ったのに、ケルヴィ姉妹だけは呼ばれません。バーネル家のケザイアは、ケルヴィ姉妹にも「人形の家」を見せたいと思い、あるとき上手く二人をこっそり中庭の門から導きいれます。「人形の家」を開けて見せているところに、家人がやってきて、ケルヴィ姉妹は「にわとりであるかのように」追い出され、ケザイアはひどく叱られます。
けれどもケルヴィ姉妹は、追い出された後、道端の排水管の上にすわって休みながら、「人形の家」を思い出します。妹のエルスが、姉のリルに言います。「私は小っちゃなランプを見たわ。」それはケザイアがいちばん気に入っていて、姉のイザベルには尊重されなかった、小さなこはく色のランプだったのです。
マンスフィールドの短編は、あらすじだけ知ってもだめで、読まないといちばん大事な何かが伝わらないので、もどかしいのですが…。でもこのケルヴィ姉妹がよりそって夢見るように「人形の家」を思い出す最後の場面などは、読んでいると、ラファエル前派のジョン・エヴァレット・ミレーの絵画「盲目の少女」を思い起こしました。的外れなのかもしれないけれど、わたしは通うものがあるように感じたのです。

「カナリヤ」も好きでした。一人の独身者の女性の独白のかたちで、飼っていたカナリヤの思い出が語られるのですが、これもまた悲哀に満ちていて…上記の引用にあるように、マンスフィールドの作品というのは、何とも表現しようのない人生の道連れとしての悲しみがいつもひそんでいて、それが胸を打つのだと思います。
マンスフィールドの筆は、登場人物の背景すべてを説明してはくれないので、想像の余地があります。また読後の余韻が素晴らしい。この想像の余地の中に、読後の余韻の中に、深い「悲しみ」がしみいってきて、読むたびにやはり、打ちのめされるように、美しい作品だとつよく思うのです。

→「サルヴァスタイル美術館」で、ジョン・エヴァレット・ミレー「盲目の少女」を確認!

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●ジェイン・オースティン (Jane Austen)

1775-1817。
イギリス生まれ。1805年、牧師だった父を失うと、母と姉、親類の娘らと女性だけの生活を送り、創作に専念する。
『分別と多感』『自負と偏見』『エマ』『マンスフィールド・パーク』『説得』『ノーサンガー・アベイ』の6つの長編小説は、どれも若い女性の結婚を題材とした平凡な日常を描いたものであるが、機知とユーモアに富む傑作ぞろいで、イギリス小説史上最高の作品とされ、今日まで読み継がれている。


「自負と偏見」

オースティン 著/中野好夫 訳(新潮文庫)
自負と偏見 (新潮文庫)
 独りもので、金があるといえば、あとはきっと細君をほしがっているにちがいない、というのが、世間一般のいわば公認真理といってもよい。
 はじめて近所へ引越してきたばかりで、かんじんの男の気持ちや考えは、まるっきりわからなくとも、この真理だけは、近所近辺どこの家でも、ちゃんときまった事実のようになっていて、いずれは当然、家のどの娘かのものになるものと、決めてかかっているのである。
「ねえ、あなた、お聞きになって?」と、ある日ミセス・ベネットが切り出した。「とうとうネザフィールド・パークのお邸に、借り手がついたそうですってね」
 さあ、聞かないがね、とミスター・ベネットは答える。
「いいえ、そうなんですのよ。だって、今もロングさんの奥様がいらして、すっかりそんなふうなお話でしたもの」

『自負と偏見』5ページより、第1章冒頭部分の引用

あらすじ:イギリスの田舎町、五人姉妹のいるベネット家の近所に、青年紳士ビングリーが引越してくる。ベネット家の長女ジェーンは、美人でやさしい性格で、すぐに気さくなビングリーと親しくなる。 才気と茶目っ気にあふれた次女エリザベスは、ビングリーの親友で少々気難しいダーシーの高慢な態度に、最初は偏見を抱くのだったが…。

『自負と偏見』(「高慢と偏見」という翻訳もあります)は、有名な、イギリス小説史上最高の作品とも言われる、ジェイン・オースティンの代表作。
訳がたくさんありすぎて、どれを読むかほんとうに迷った!ので、やはり定評ある中野好夫氏の訳を選びましたが、この訳はかなり古いものだということは確か。古い言い回しがまた味わい深いのですけど、あまり小説を読みつけないという人は、ちくま文庫版『高慢と偏見』を選ぶと良いかも。こっちは新しい訳だから(でもタイトルの訳は、『自負と偏見』のほうが意味が合っていると思う…)。

さてさて舞台は200年前のイギリスの田舎町、お金持ちの青年紳士ビングリーが近所に引越してきて、色めきたつベネット家の五人姉妹の母、ミセス・ベネット。
とにかく娘をできればお金持ちと結婚させて片付けてしまおうと、それのみ生きがいにしているような、品のない頭の軽い夫人と、夫人のおしゃべりをまったく聞いてない旦那のミスター・ベネット。
冒頭の二人のやりとりは、う〜ん、舞台は200年前のイギリスのはずなのに、今の日本でもこんな光景、どこででも見られそう。
主人公エリザベスと、長女ジェーンの妹たちの性格もなんだか…末娘のリディアなんて、母親に甘やかされて自惚れがつよくてふしだらな娘に育ってしまっているし、メアリーは器量が悪いので音楽や読書に励んでいるのだけど、それがむしろ鼻につく感じでほんとうの教養は身についていない。

この物語は、要するにエリザベスとダーシー、ジェーンとビングリーの結婚にいたるまでの話なんだけれど、ダーシーに思いを寄せるミス・ビングリー(ビングリーの妹)の、エリザベスへの意地悪もすごいし、よくここまで赤裸々に女子の気持ちを書いたな〜と思う。
印象的なのは、エリザベスの友人シャーロットが、エリザベスに求婚して断られた牧師のミスター・コリンズの気をひいて、あっという間にコリンズとの結婚を決めてしまうというくだり。
コリンズはこれまた大げさな言葉遣いと虚栄心が鼻につく欠点だらけの人物で、エリザベスは友人が、世俗的利害(要するに暮らしに困らないだけのお金や身分)だけを考えて、コリンズと結婚するのが悲しくて仕方ない。 「いわばみずからの手でみずからを辱めてゆく友、したがってその友に対する気持も、おのずからにして変わらざるをえない」というエリザベスの心境は、しみじみよくわかるな〜とか思ってしまう。
でもそんなエリザベスの複雑な女心も見逃せない。ダーシーからの求婚を一度は断った彼女も、ダーシーが実は高慢どころか誠実な人物だったと知って、自らの偏見を反省するのだけれど、そんな彼女が旅先で、ダーシーの立派な邸と広大な荘園を目にして、「こんな邸の女主人になるのも、まんざらではない!」と思うのです。 ほんとうにリアルな女子の心理やな〜と笑ってしまう。

ほかにも共感させられる言葉はいくつもあるし、欠点だらけの登場人物たちは、あの人もこの人も、あまりにも周りの誰かに似すぎていて…。そして自分もまた、この中の誰かにそっくりの、愚かな行動をとってしまっていることに気づかされます。
でも200年前の人間模様が今と同じなのだとしたら、人間っていうのはこういうものなんだと、諦めるよりほかなく、他人と自分の愚かさも、許せる気持ちになってくるから不思議です。
基本的には喜劇調の、ハッピーエンドの物語だからそう思えるのでしょうか。オースティンの小説の力を感じます。
現代日本と変わらぬ人間心理の鋭い描写は、オースティン作品を普遍のものにしていますが、現代日本とはまったく違う200年前のイギリスの生活様式、中上流階級ののんきな暮らしぶり、田園風景の美しさを知ることができるのも、オースティン作品を読むことの醍醐味と言えるでしょう。

ずいぶんトシをとってから、初めてジェイン・オースティンを読んだのですが、ほんとうに面白い! とにかく先へ先へとページを繰る手をとめられなくなるタイプの小説です。
オースティン作品は、いかにも文学然として、岩波文庫や新潮文庫の棚におさまっているけど、ほんとうはいまどきのベストセラーと並べておいてもいい、わかりやすくて楽しい一流のエンターテイメント作品なんじゃないか、と思います。(…て、みんな知ってるか〜^^;)
とにかく、モームの『世界の十大小説』に選ばれている作品だからって、構えずに普通に読んでみよう!と、未読の人にはぜひともおすすめしたいです。

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●エリザベス・ギャスケル (Elizabeth Gaskell)

1810-1865。
ロンドンのチェルシーに生まれる。1歳で母を亡くし、チェシャー州ナッツフォードに住む母方の伯母ハンナ・ラム夫人に引き取られた。
1832年、21歳で牧師ウィリアム・ギャスケルと結婚してマンチェスターに移り住む。一牧師の妻として家庭を支えながら、作家活動もマイペースに続けた。
長篇『妻たちと娘たち』の完成目前、55歳で死去。
代表作に『メアリ・バートン』『ルース』『北と南』『シルヴィアの恋人たち』『クランフォード』等がある。


「女だけの町(クランフォード)」

ギャスケル 作/小池 滋 訳(岩波文庫)
女だけの町―クランフォード (岩波文庫 赤 266-1)
 まず第一に申しておきますと、クランフォードの町は女の軍勢に占領されているのです。ある程度の家賃以上の家を持っているのは女ばかり。夫婦がこの町に住みついても、どういうわけか男のほうが姿を消してしまいます。 クランフォードの晩の集いなんかに出席してみると、男は自分一人きりなので、死ぬほどたまげてしまうからかもしれませんし、また、連隊に配属されているとか、船に乗っているとか、鉄道でたった十マイルのところにある大商業都市ドランブルで、一週間まるまる仕事に忙殺されているからかもしれません。 ともかく男は、どうなるにもせよ、クランフォードからいなくなるのです。
 かりにいたとしても、男に何ができるというのでしょうか?

『女だけの町(クランフォード)』7ページより、
第1章「女ばかりの社交界」冒頭部分の引用

あらすじ:かつての牧師の娘ミス・マティー、ずっと独身を通してきたミス・ポール、貴族階級の未亡人ミセズ・フォレスター…田舎町クランフォードで、上品につましく暮らす淑女たちは、少々風変りではあるけれども、根は善良な人たちばかり。
ドランブルの商人の娘メアリー・スミスが、おっとり浮世ばなれした「女だけの町」クランフォードでの日々の出来事、ちいさな事件を、皮肉とユーモア、そしてしみじみとしたペーソスたっぷりに物語ります。

わたしにとっては、あえて言うなら、どストライクな作品です。
舞台は古き良きイギリスの架空の田舎町。登場人物は、上品でおっとりした老嬢ばかり。派手な事件は何も起きず、ぐいぐい物語に引っぱり込まれることもない。終盤ミス・マティーの身にふりかかった災難も、本人の人柄や正直な暮らしぶりを愛する、周囲の人々の善良さで絵に描いたようなハッピーエンド。
そう書いてしまうと、なんだかつまらない小説のように思えるかもしれませんが、実際に読んでみると、英国小説らしい皮肉とユーモアあふれる語り口ににやりとさせられ、古き良き英国人の暮らしぶりを垣間見て楽しみ、ほのぼのしたハッピーエンドにほっと安心させられます。

クランフォードに住む老嬢たちは、階級意識にこだわり、商売や、金に目の色を変える振る舞いを品がないこととして、我こそは上品なりとつましく、少々時代遅れの暮らしを続けています。
しかしこの老嬢たちの暮らしぶりが、辛辣に批判的になりすぎることなく、皮肉でありながらもユーモラスに、くすりと笑える具合に語られているのは、さすが英国小説というべきでしょうか。
解説によると、この物語の舞台クランフォードのモデルとなったのは、著者ギャスケル夫人が育ったナッツフォードの町。
ギャスケル夫人は結婚してナッツフォードからマンチェスターに移り住んでいますが、ドランブルとはマンチェスターのことで、メアリー・スミスの遠い親戚として登場するミス・ジェンキンズとミス・マティーの姉妹も、ギャスケル夫人の従姉がモデルなのだそう。
田舎町クランフォードと商業都市ドランブルを行き来する語り手メアリー・スミスは、すなわち著者自身なのですよね。
ギャスケル夫人は自身の故郷ナッツフォードの風景を映したクランフォードを、古き良き英国の田舎町として愛情たっぷりに、けれどもけっして感傷的になりすぎることなく、魅力あふれる理想郷として描き出しているのです。

またネタバレになってしまいますが、物語終盤、破産という災難に見舞われたミス・マティーのもとに、軍人としてインドの戦争に参加したまま行方不明となっていた弟、ピーターが帰ってくるというくだりがあります。
絵に描いたようなハッピーエンドですが、だからこそ感動的で、けっしてばかばかしいと思えないのは、ギャスケル夫人自身の兄が、商船の高級船員としてインドに船出したまま永久に消息を絶ってしまったという事実があるからでしょうか。
著者がそのことを胸に、あえてインドから生きて帰ってくる兄弟の姿を描いたのだと知れば、なんとも泣けるエピソードです。

牧師の妻らしく正直でまっとうで、また英国人らしく皮肉とユーモアに満ちたギャスケル夫人の筆致は、何と言うこともないお話を、清々しく、あたたかく、滋味深いものに仕上げています。
ゆっくりとしたペースで、しみじみと、英国小説の醍醐味を味わいながら読むことのできる佳品。
ちなみに、この作品には園遊会や舞踏会や洋館といった華やかな素材は登場しないのですけど、こみいった編み方の靴下どめを編んだり、古いレースの襟を大切に使い続けていたり、町の小さな雑貨屋で開かれる春のファッションの展示会に胸躍らせたりと、クランフォードの老嬢たちのささやかな暮らしぶりもまた、女子ならではの楽しみに満ちています。

→Amazon「女だけの町―クランフォード (岩波文庫 赤 266-1)
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