〜すきとおった文体の魅力〜
ムーミン童話の作者トーベ・ヤンソンは、ムーミンシリーズの執筆に終止符を打ったあと、「ポスト・ムーミン」とも呼ばれる、大人向けの小説群を多数発表しています。 それらの作品群は、自然の厳しさや人間のおそろしさを誠実に描くすきとおった文体の中に、トーベ・ヤンソンという一人の稀有な芸術家の姿がたちあがってくる…そんな深い味わいがあり、ムーミン童話に劣らずたいへん魅力的です。 このページでは、読書日記にアップした、トーベ・ヤンソンの(ムーミン以外の)本の感想をまとめてあります。 *トーベ・ヤンソン 新刊情報 |
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トーベ・ヤンソンTove Jansson (1914-2001)画家、風刺漫画家、小説家、童話作家。
1914年、フィンランドのヘルシンキに生まれる。スウェーデン系フィンランド人。父は彫刻家、母は挿絵画家。 15歳以降、ストックホルム、パリなどで絵を学び、はやくから画家として活躍。雑誌の挿絵やフレスコ画などを手がける。 1948年に出版した童話『たのしいムーミン一家』が大評判となり、その後、一連の「ムーミンシリーズ」は、 世界中で多くの読者を得る。1954年からはロンドンの「イヴニング・ニューズ」紙に、漫画『ムーミントロール』の連載を開始。 『彫刻家の娘』『少女ソフィアの夏』(ともに講談社)、『誠実な詐欺師』(筑摩書房)など、おとな向けの著書も多数執筆。 1958年、『ムーミン谷の冬』でエルサ・ベスコフ賞を、1966年には、国際アンデルセン大賞を受賞。 2001年6月27日、没。享年86歳。 |
「聴く女」トーベ・ヤンソン・コレクション 8トーベ・ヤンソン 著/冨原眞弓 訳(筑摩書房) |
『聴く女』は原書の刊行が1972年で、巻末の訳者あとがきによれば、「ヤンソンが明らかにおとなの読者を想定して書いた最初の短編集」とのこと。 収録作品は、表題作「聴く女」ほか、「砂を降ろす」「愛の物語」「嵐」「発破」「リス」など18篇。 『クララからの手紙』と同じく多彩な作品群ではありますが、やはり訳者あとがきによれば「秀作と習作があいなかばする短編集」ということになるようです。 そうはいっても、やっぱりわたしはヤンソンの小説が大好きなので、どの作品も楽しんで読み終えたのですが。 この短編集が出た当時、ムーミン童話の続編を期待していた読者たちはいささか当惑したものらしく、「おとなのためのムーミンと考えられぬことはない」とまで言う書評家もいたのだそうです。 ヤンソンが『ムーミン谷の十一月』においてムーミン童話に幕を引き、新たな作風を開拓せんと書き始めた大人のための小説群は、 明らかにムーミンの世界とは一線を画するもの。ですが、この『聴く女』におさめられた短編の中には、ムーミン作品を彷彿させるものも確かにあります。 すぐにそれとわかるのは「嵐」という一編で、これは『ムーミン谷の仲間たち』におさめれた「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」との相似が明白です。 「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」は、神経質で完璧主義の主人公フィリフヨンカが、正体不明の恐怖と不安に怯え、やがて世界の終わりがくるという妄想にとりつかれて…という内容の、 どちらかといえば大人向けの作品。ときに自律神経失調症に悩まされることのあるわたしにとっては、とても興味深いお話でした。 そのため『トーベ・ヤンソン短篇集』にも収録されていた「嵐」を読んだときから、これは「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」と同じお話だ!と思っていました。 想像を絶する暴風雨に見舞われる「嵐」の主人公。恐怖。不安でたまらず彼が電話をかけてきてはくれないかと焦れますが、結局こちらから連絡をとることはなく…。 そしてフィリフヨンカも「嵐」の主人公も、ひどい災難のあと恐怖の夜が明け、屋根をとばされ家がめちゃくちゃになったとき、はじめて、これまでに感じたことのない解放感を味わうのです。 奇妙につきぬけた不条理とも言える結末。でもなんとなく共感をおぼえる読者は少数派なのでしょうか。 ヤンソン作品においては、<嵐>のモチーフは比較的よく使われていると感じますが、いつもヤンソンはこの自然の猛威を、敵対するものではく、好意的に描いているように思います。 自伝的小説『彫刻家の娘』などによれば、トーベ自身もトーベのお父さんも、嵐によって訪れる<非日常>が大好きだったようです。 他に印象に残った作品といえば「砂を降ろす」「発破」など、子どもが主人公のもので、やっぱりヤンソンは子ども心の描写が巧みです。 ヤンソンの書く子どもって、ほんとうに可愛くないんですよね。ムーミン童話だって、あの不思議に魅力的な挿絵を抜きにして、物語だけを読み込めば、 登場する子どもたちは(ムーミンにしてもスノークのおじょうさんにしてもスニフにしても)、ちっとも可愛くなんかありません。自己中心的というか、自己愛がつよいというか、そのくせ夢見がちで、気分屋で…。 でも「大人がこうあってほしいと願う子ども」ではなく、子どものほんとうの姿を克明に描いているからこそ、ムーミン童話はすぐれた児童文学であり得るのだと思います。 あとヤンソンの得意技といえば、老人の描写。 表題作「聴く女」では、主人公イェルダ伯母が、加齢により記憶があいまいになり、それまでの筆まめな、他人への配慮とまじめな関心に満ちた態度、すなわち彼女にそなわっていた美しい特性が、すっかり失われてしまいます。 やがて妄想とも事実ともつかぬ、多くの友人・親戚たちの剣呑で壮大な人物地図を羊皮紙に描くようになるのですが…。 聴き上手、すなわち「聴く女」であったイェルダ伯母は、友人・親戚たちによく秘密を打ち明けられていたので、彼らの一見おだやかな関係が、実際は底に悪意を秘めたものであることも知っていたのです。 そうして人物地図を描くうち、それまで「聴く女」としてつねに受身であったイェルダ伯母は、はじめて「甘くて苦い権力の味」を知ります。 しかしその危うい人物相関図は、イェルダ伯母の加齢による記憶の錯乱のため、 いまやすべてが変化し、有効期限を過ぎたものになってしまっていたのでした。 結末、無効となった地図を封印し、かつて集めていたきれいな絵の切り抜きや押し花を取り出し、それらが以前はどんなふうに見えていたのか思い出そうとし、果たせず、 イェルダ伯母がさっと手をひと振りして、絵を箱の中に払い落とす場面。マットにこぼれ落ちて光るスパンコールの蒼さ。 決して、感傷的にはならない筆致。ヤンソンの描写はいつも、絵のような美しさをたたえています。 短編集の最後におさめられた力作「リス」は、すぐれた物語性もさることながら、ヤンソンのクルーヴ・ハルにおける実際の島暮らしを彷彿させ、ファンにとって興味深いものがあります。 2006年11月20日発売の雑誌「クウネル」(マガジンハウス)の巻頭特集「ムーミンのひみつ」(→Click!)では、ヤンソンが毎夏を過ごした島クルーヴ・ハルの美しい写真がたくさん掲載されていましたが、 これを見たとき、「リス」を読んで思い描いた風景と、イメージがしっくり重なるので、なるほどと納得したものです。 2007/02/25 →Amazon「聴く女 (トーべ・ヤンソン・コレクション)」 |
「クララからの手紙」トーベ・ヤンソン・コレクション 3トーベ・ヤンソン 著/冨原眞弓 訳(筑摩書房) |
読みながら、わたしはどうしてこうも、トーベ・ヤンソンの小説が好きなのだろうと思ってしまいました。 たぶん、いやきっと、万人受けする小説ではないのですが…。 『クララからの手紙』の収録作品は、表題作「クララからの手紙」ほか、「汽車の旅」「夏について」「カリン、わが友」など13篇。 多彩な作品群で、一冊の短篇集としては、やや散漫な印象を与えるかもしれません。 『誠実な詐欺師』のような、息づまる緊張感はあまり感じられず、あっさりとして軽い印象の作品が多かったような気がしますが、 わたしは楽しんで読み終えました。どの表現をとっても、ヤンソンらしい風刺と諧謔と冷徹さと誠実さとが感じられて、にやりとしてしまうのです。 「夏について」「カリン、わが友」は、ヤンソンの自伝的小説『彫刻家の娘』の続編とも呼べるもの。 とりわけ「夏について」が、わたしは大好き。一人称の語りなのですが、主人公の生活についての説明などはひとつもなく、ただ「わたし」が何をしたのか、ひたすら淡々と綴られているだけ。 この「わたし」の感性がすばらしくオリジナルで芸術的で、『彫刻家の娘』で語られていたヤンソンの少女時代を彷彿させます。 不思議な余韻を残す小品です。 最後に収録された「リヴィエラへの旅」も、好きな作品。短篇集の最後を飾るにふさわしい、異国情緒たっぷりの美しい一篇。 だけどもちろん、ただリヴィエラというリゾート地を賛美し、旅の素晴らしさを謳いあげた作品だ、などとは思わないでください。 高級リゾート地リヴィエラに対する、ヤンソン一流のスパイスのきいた風刺を織り交ぜながら、母と娘、人間と犬、旅先でのさまざまな出会いなど、しずかに心あたたまる交流が描かれて、 この短篇集は締めくくられています。 どの作品も素晴らしいと感じるのですが、実は、書いていることの意味は、まったく正確には把握できていません。 そもそも作者は、読者の容易な作品理解を拒むかのように、何事も明らかにはされない結末を用意し、わたしたちは最後まで読んでも、 宙ぶらりんな気持ちのまま放り出されてしまいます。 しかし、この「拒絶される感じ」は、読者に媚を売るような読み物ばかりが売れ行きを伸ばす現代の出版業界において、際立った個性だと言わなければなりません。 また、登場人物たちはみな、どこか周囲と折り合わない、日常生活に違和感や不安感を抱いている人間ばかり。 たとえば「ルゥベルト」に登場するルゥベルト、「絵」に登場するヴィクトルの父、「事前警告について」に登場するフリーダなど。 けれども、彼らが抱いている違和感や不安感こそ、わたしにとっては何よりも尊いもののように思われるのです。 まるで当たり前のように誰もが思っている、この日常に、違和感を覚えている人、その違和感を見過ごすことができず、生きにくさを感じている人。 それはたとえば、エミリー・ディキンソンなどもそうだったのではないかな、と思えるのですが。 生きにくさ、というテーマでは、『アルネの遺品』にも共通するものがあるかもしれません。 若くして死を選んだ少年アルネは、まさに、「生きにくさを感じている人」に他ならなかったのですから。 だけどわたしは、この、「生きにくさを感じている人」というものに、畏敬の念を抱かずにはいられないのです。 生きにくさを感じながらも、人は生を、そして死を、誰しも等しく受け入れなければならないのですから。 →エミリー・ディキンソンの本の紹介はこちら 2006/04/05 →Amazon「クララからの手紙 (トーベ・ヤンソン・コレクション)」 |
「少女ソフィアの夏」トーベ・ヤンソン 作/渡辺 翠 訳(講談社) |
母を亡くしたばかりの少女ソフィア、ソフィアのパパ、おばあさん。フィンランド湾に浮かぶ岩の小島で、3人が過ごした夏の思い出を、みずみずしく描いた一冊。 訳者あとがきによると、この3人の登場人物は実在していて、少女ソフィアは作者トーベ・ヤンソンの姪、おとうさんはトーベの弟でムーミン・コミックスも手がけたラルス、 そしておばあさんはトーベの母親がモデルになっているのだそうです。 作者トーベもラルスさん一家も、夏には数ヵ月間、フィンランド湾の岩の島で実際に過ごしていたとのこと。 トーベ・ヤンソンは、おばあさんとソフィアとのあいだに実際に起きた出来事を、想像力たくましく物語に仕立て上げたというわけです。 「『Sommarboken』(原題―夏の本―)は、わたしの書いたもののなかで、もっとも美しい作品なのよ」作者の言葉どおり、「少女ソフィアの夏」は、読んでいてほんとうに気持ちの良い、夏にぴったりの本だと思います。 「おばけ森」と呼ばれる枯れた森で遊ぶソフィアとおばあさん。牧場の散歩。ごっこ遊び。島の洞穴への小さな旅。夏至祭。 ときどき現れる珍客たち。こわがりのベレニケ、漁師猫、謎めいたエーリクソン。 となりの島に新たに建てられた、社長さんの豪華な別荘に忍び込んだり、パパが突如、庭作りに凝り始めたり…。 そして、凪いだり、嵐になったり、船を遭難させたり、いろいろなものを浜に打ち上げたりと、絶えず表情を変えつづけながら、しかし永遠に変わることのない、海の風景。 作者自身、島暮らしをしていたからこそ、こんなにも魅力的な夏の思い出を描くことができたのでしょう。 この作品は、邦題が「少女ソフィアの夏」となっていて、少女の夏の思い出を描いたもののように思われますが、 実は重要なのが、ソフィアのおばあさんの目線です。 ソフィアとおばあさんは、あくまで対等で、どちらかが他方の保護者ということがありません。 人生のとば口に立ったばかりのソフィアと、出口に向き合っているおばあさんは、ふたり一緒に、一所懸命遊び、夏を味わっています。 未来への希望と鋭敏な感受性をもつ少女の思い出だけでなく、老いと死の不安を内に秘めた、おばあさんの目から見た夏の風景が描かれることによって、物語が深みを増し、美しさが際立ってくるのです。 ソフィアとおばあさんには実在のモデルがいるわけですが、作者自身の少女時代の思い出と、老境の感慨とが重ねられていることは、想像に難くありません。 入れ歯をシャクヤクの茂みに落としてしまって、探しているのをソフィアに見つかって、不機嫌になるおばあさん。 おばけ森で、枝や幹の切れ端を彫って、ふしぎな木の動物を作り出すおばあさん。 島を訪ねてくる古い友人と、いつも一緒に飲み続けてきたシェリーが、実は大嫌いだったおばあさん。 みんなを心配させないために部屋に置いてある室内用便器が、「ふがいなさの代名詞のようで」、ほんとうは嫌いなおばあさん。 わたしは、トーベ・ヤンソンの描く、ちっとも悟りをひらいていない老人たちが大好きです。 自然と人間の営み、若さと老い、これらの要素が対立することなく調和して描かれているところが、トーベ・ヤンソンならではの筆さばきと言えるでしょうか。 またこの本には、ムーミン童話を彷彿させるトーベの挿絵が付されているのも魅力です。 2006/07/22 →Amazon「少女ソフィアの夏」 |
「誠実な詐欺師」トーベ・ヤンソン・コレクション 2トーベ・ヤンソン 著/冨原眞弓 訳(筑摩書房) |
今日は、とても寒い一日でした。夕方の空では暗い雲と白い雲とばら色の雲が重なりあい、ものすごい速さで風に流されていました。 こんな冬らしい日に、トーベ・ヤンソン『誠実な詐欺師』を読了できたことは、幸せな読書体験だったと思います。 この美しい冬の物語を、冬の日に家に閉じこもって読みふけることの、このうえない至福。 舞台は、深い雪に閉ざされた海辺の小さな村ヴェステルヴィ。 主人公カトリ・クリングは、潔癖で、他人にも自分にも誠実であろうとするあまり、愛想や追従が言えず、村人との交流もほとんどありません。 ただ数字につよく計算がはやいため、村人の抱える厄介事の相談をうけることもあります。 彼女のたいせつな弟マッツは、村人からは頭が足りないと思われていますが、いつか自分の設計した美しいボートを作ろうと、図面を描きつづけています。 カトリはマッツにボートを買ってやるために、ある企みを抱いて、<兎屋敷>にひとりで住む絵本作家アンナ・アエメリンに近づきます。 もうひとりの主人公アンナ・アエメリンは、遺産のほかに本の印税、登録商標などの収入があり、暮らしむきには余裕があるのです。 何不自由のない生活をおくり、一見無邪気で鷹揚なアンナ。 カトリはアンナに対して「誠実に」詐欺をはたらき、マッツにボートをプレゼントするための、まとまった金を得ようと考えます。 この世の誰ひとりとして傷つけることのない、「誠実な」詐欺とは、一体いかなる企みなのでしょう? まず雪に閉ざされた海辺の小さな村の描写、ヤンソンの冬の表現が、温暖な日本に住む人間には想像できないほど美しいです。 読んでいると、この冬の寒さの中にすっぽりとおさまり、安全に匿われているような、安らかな気持ちになります。 甘ったるい文章など一行も見当たらないのに、不思議と読者をいやす筆致。 作家ヤンソンの筆はまた、登場人物の心のひだに奥の奥までわけいって、人間心理の醜い真実の一面をも明晰に描き出します。 アンナの、恵まれて生活に汲々としたこともない生い立ちからくる、軽率や怠惰。芸術家の傲慢なエゴイズム。 アンナと深く関わることによって、つねに正確な答えを導き出すはずの数字への信頼が損なわれ、ぐらつくカトリの潔癖さ。 けれども、ヤンソンが容赦なく描き出す人間心理の醜さを、読めば読むほど、わたしはすきとおった良い気持ちになっていったのです。 そこまで書かなくてもと思うほど、痛い真実を描いているのに、ヤンソンの文体は、冬の朝の寒気のように澄み切って、読者の心を濁らせません。 曖昧さなどまったくない冷徹な文章。傲慢もゆらぎも怠惰も繊細さもすべて描き切ることによって、登場人物たちの「誠実さ」が浮き彫りになっています。 マッツの純粋なまなざしや、カトリとマッツの姉弟をあたたかく見守る青年エドヴァルド・リリィエベリの存在が、 緊張感にみちた物語を、不思議にやさしい雰囲気でくるむのに、一役かっています。 ヤンソンは画家でもあるからでしょうか、場面のひとつひとつが、つねに絵として読者に想像できるように描写されていることも、この作品の魅力のひとつです。 ヤンソンの短篇は、文章によるデッサンという感じですが、この長篇の傑作『誠実な詐欺師』は、文章による何点もの水彩画といった印象。 読んでいくうちに風景のひとつひとつが目の前に浮かびあがってくるようで、美しい絵本を眺めるような満足感もあります。 これからも、わたしはこの本を度々手にとって読み返し、フィンランドの冬の澄み切った空気を、胸いっぱいに吸い込むことでしょう。 2005/12/04 →Amazon「誠実な詐欺師 (ちくま文庫)」(文庫) |
「太陽の街」トーベ・ヤンソン・コレクション 6トーベ・ヤンソン 著/冨原眞弓 訳(筑摩書房) |
フロリダ、セント・ピーターズバーグ。 そこは温暖な気候と、快適な生活が保証された、老人たちの街。 ゲストハウス「バトラー・アームズ」には、個性的な老人たちが集まり、それぞれの孤独を抱えながら、 いまだ「老い」をうけとめきれずに暮らしています。 音楽に怯え、サングラスを手放さないエリザベス・モリス。 自らの善良さを信じてうたがわず、少女の頃の思い出を反芻しつづけているイヴリン・ピーボディ。 明晰な頭脳と、ありあまる行動力をもてあまし気味のレベッカ・ルビンスタイン。 精神的には満ち足りているものの、少し歩いただけでも体調を崩してしまうハンナ・ヒギンズ。 耳の遠いふりをして、弱い者いじめをくりかえす、偏屈なアレキサンダー・トンプソン。 「バトラー・アームズ」の事務をひきうけているものの、慢性の胃痛に悩むキャサリン・フレイ…。 他、多くの老人たちと、対比するように登場する一組の若い男女、ジョーとリンダ。彼らが織り成す人間模様が、「太陽の街」の日常を描き出します。 今回は、短めの長編です。 最初読み始めて、老人だけが住む「太陽の街」の描写に、ヤンソンらしい風刺を感じて、まずにやりとさせられました。 そもそも巻頭に、美辞麗句で<太陽の街(サン・シティーズ)>を宣伝する、アメリカ合衆国のパンフレットからの抜粋を掲げてあるところなんか、最高に皮肉だし。 トーベ・ヤンソンは、日本では、やさしいムーミン物語を書いた童話作家と思われているかもしれないけれど、 ほんとうにびっくりするほど毒舌家だなあといつも思うし、そこが魅力のひとつでもあります。 この作品は、とにかく登場人物が多く、なのに人物紹介もないので、誰が誰だか、最初はなかなか覚えにくいのですが、気にせず読み進めれば問題はありません。 特別に主人公のいない、群像劇です。 主題は、老いと死。 ヤンソンが好んで描いたテーマではないでしょうか。 テーマがテーマだけに暗いお話と思われそうですが、そうでもありません。老人たちの心理など、 老いの不安、屈辱、プライドの揺らぎが、辛辣に描き出されているのですが、どこかほのぼのとしたユーモアもあって、泥沼の雰囲気にはならず、さすがはヤンソンという感じです。 物語は起伏に富んでいます。まず、「バトラー・アームズ」の住人であるピハルガ姉妹の死。 男性の数が圧倒的に足りない、春のダンス・パーティでは、ダンスの最中に市長が倒れて亡くなります。 それから往年のミュージカルスター、ティム・テラトンの登場。皮膚のたるみのない美しい顔を維持するために、肥満も辞さないというテラトンもまた、今となっては一人の老人に過ぎません。 対して描かれるジョーとリンダの若さは、老人たちの「老い」をより克明にしています。 枯れきっていない老人たちの姿、生への執着、死への恐怖。 ほんとうは誰も、どんなに年を重ねても、枯れきってしまうことなどないのだろうな、と思いました。 そういった、情けなくてみっともない、不安や屈辱や執着を抱え続けて、誰でも生きているんだなと。 それにしても、トーベ・ヤンソンの文章を読んでいるときの、この安心感は何なのだろう、といつも思います。 老いと死が主題になっている、この作品を読んでいる最中も、ずっとそう感じていました。 人間の情けなさやみっともなさを描くヤンソンの筆致は、どこかあたたかくユーモラスで、深刻な主題を扱ってなお、後味はさわやかです。 生きることの本質的な不安を描く繊細な感受性、鋭い切り口で織り交ぜられる風刺、飄々としたユーモア。 そんなトーベ・ヤンソンの小説は、わたしにとって、いつでも匿ってくれる心のシェルターのようなもの、なのかもしれません。 2006/06/25 →Amazon「太陽の街 (トーベ・ヤンソン・コレクション)」 |
「彫刻家の娘」トーベ・ヤンソン 作/冨原眞弓 訳(講談社) |
ムーミン童話の作者が、子ども時代をふりかえって描いた自伝的小説。 「『彫刻家の娘』はしあわせな子ども時代についての物語です」と、ヤンソンさん自身が序文で語っているとおり、 ほんとうに幸せで愛に満ちた、みずみずしい思い出の数々が、ムーミン童話を彷彿させるタッチで描かれています。 冨原眞弓 編訳『トーベ・ヤンソン短篇集』(ちくま文庫)は、研ぎ澄まされた芸術家の感性で描かれた硬質なデッサンといった印象でしたが、 この『彫刻家の娘』は、気負いなくページをめくることのできる、やさしいスケッチといった味わい。 主な登場人物は、もちろんヤンソン一家。 まず、物語の語り手である少女トーベ。ムーミンパパそのものの父、著名な彫刻家ヴィクトル・ヤンソン。 ムーミンママそっくりの母、挿絵画家シグネ・ハンマルステン・ヤンソン。 そして、ヤンソン一家をとりまく、風変わりな人々。彼らの生き様のおかしみと哀しさは、ムーミン谷の住人たちの姿と重なるものがあります。 またこの物語の魅力のひとつに、少女トーベのスパイスのきいた素敵なキャラクターがあります。世界に対するトーベの、幼いながらも芸術家然としたするどい眼差し。奔放な想像力。 ムーミンパパとムーミンママの子どもであるはずのトーベは、「ムーミントロール」ではなく、どこか「ちびのミイ」に似ています。 わたしは「ちびのミイ」の、物事の本質を見抜く目、それを無慈悲なほどはっきりと言葉にする性格が、とても好きです。 『彫刻家の娘』には、印象的なトーベの言葉が、いくつも出てきます。 たとえば「石」というエピソード。通りを行く人々の奇異の目にさらされながら、大きな石をころがしつづけるトーベのモノローグ。 「ほんとうに大切なものがあれば、ほかのものすべてを無視していい」 「エレミア」というエピソードでは、エレミアという風変わりな地質学者の青年とトーベとの、ふたりだけの<ごっこ遊び>の間に、無遠慮に割って入ってきて、 遊びをぶちこわした女性(おそらくは青年を慕う女性)に対して、こう言い放ちます。 「アマチュア! あんたはアマチュアよ! あんたは本物じゃない!」 子どものわがままなどではなく、まさに芸術家らしい心の自由さ、エゴイスティックなまでの奔放さ。 トーベは少女の頃から、芸術とは何か、芸術家とはどうあるべきか、よくわかっていたのでしょう。 でも何よりも印象的だったのは、繰り返される、こんな表現。 「チュールのペチコート」というエピソード。ママの黒いチュールのペチコートを頭からすっぽりかぶって両親のアトリエを眺め、 「アトリエはわたしがいままで見たこともない見知らぬアトリエになった」 また「高潮」というエピソードでの、クライマックスの場面。 「いけすはこわれ、浮きは海峡をこえて沖に流れだす。すばらしい光景だ! 野原の草は水の下にしずみ、水位はますますあがる。嵐と夜のせいで、すべてはまったくあたらしくなった」 子どもの頃、世界はとても新鮮で、いつも何かしらわくわくしていたような気がします。 けれども成長するにつれ、世界をまるで見慣れたもの、見飽きたもののように感じてしまい、新鮮な驚きが少なくなってしまったように思います。 曇ってしまった目をすすいで、周囲をもう一度見渡せば、世界はいつも新しいのだと、この作品が気づかせてくれます。 『彫刻家の娘』は、ムーミン童話のルーツを知ることができ、また独立した小説としての魅力もそなえた、癒し本としてもおすすめの一冊です。 2006/01/31 →Amazon「彫刻家の娘」 |
「トーベ・ヤンソン短篇集」冨原眞弓 編訳(ちくま文庫) |
この本は、これからもわたしにとって、大切な一冊になると思います。 あるひとつの情景や、何と言うこともない出来事を淡々とつづった、ごく短い作品ばかり。ストーリーだけを説明しても、 これらの短篇の輝きを伝えることはできません。 第一、ヤンソンが作品をとおして、いったい何を言いたかったのか、読み終えた今も、わたしにはよくわからないのです。 わからないけれども、ここに記された言葉の連なりのすべてに意味があると、心で感じるのです。 ヤンソンが選び抜いた言葉のひとつひとつが、美しい刃のように、ページを繰る指先に触れてきます。 これは、きっと日本語訳も素晴らしいからです。 巻末の訳者による解説。収載作品「自然の中の芸術」について語った文章に、こうあります。 「芸術作品にせよ文学作品にせよ、はっきりと理由はわからぬままに人の心を動かすのは、外からは窺いしれぬ秘密をかかえているからだ。 芸術作品を前にしたときの無言の敬虔、そして使信(メッセージ)を自分なりに理解したいという欲求、このふたつは矛盾しない。」 この一冊の本について、わたしが感じた胸のつまるような気持ちは、つまりそういうことなのかもしれません。 2005/11/23 →Amazon「トーベ・ヤンソン短篇集」 |
「人形の家」トーベ・ヤンソン・コレクション 5トーベ・ヤンソン 著/冨原眞弓 訳(筑摩書房) |
短篇集ですが、『クララからの手紙』とひきくらべて、重く濃い、読みごたえのある作品が多かったように思います。 表題作「人形の家」は、昔気質の室内装飾師であるアレクサンデルが、仕事を引退した後、人形の家(ドールハウス)作りに熱中する話。 その没頭ぶりは常軌を逸し、同居人であり友人であるエリクとの関係に歪みが生じてきます。 そこに、ドールハウス作りに電気工として手を貸す、ボーイという男が現れ、二人の関係はますます歪んでゆくのですが…。 トーベ・ヤンソン・コレクションの広告では、この表題作は、 「植物のように有機的に生長してゆく家の模型を作るうちにその虜になってしまい、現実から少しずつ忘れられてゆく男について」の話となっています。 ですが、わたしとしてはこの短篇は、アレクサンデルとエリクの関係、二人の友情と愛情の微妙なゆらぎを描写した作品だと思いました。 ドールハウス作りに熱中するアレクサンデルを、取り残された者として眺めるエリクの気持ちが切ない一篇。 ちなみに、わたしは、アレクサンデルとエリクは同性愛関係だと確信しながら、この作品を読んだのですが…。 さて、「人形の家」はじめ、重苦しい空気を感じさせる作品も多かった中で、わたしが好きだったのは、 「時間の感覚」「自然の中の芸術」などの、どちらかといえば肩の力の抜けた作品たち。 とりわけ「自然の中の芸術」は、『トーベ・ヤンソン短篇集』を読んだときも、好きだなあと思った一篇です。 <自然の中の芸術>と銘うたれ、夏の間だけ開かれている展覧会。 湖のほとり、白樺の木立や睡蓮の沼のあいだに、さまざまな芸術作品が展示されているこの盛大な展覧会を、警備員ラネサンの視点から描き出しています。 警備員でなければ見ることのない、展覧会が終わったあとの、夜の静けさの中に屹立する彫刻についての描写など、情景を絵として想像できる美しさです。 また、夜の展覧会場に居残って、バーベキューをやろうとしていた一組の夫婦に、警備員ラネサンが、前衛芸術の概念(イデー)を語るくだり。 紐を巻きつけた包みにしか見えない、包装芸術作品について、夫婦ものの女性のほうが、こう言います。 「そんな包みを芸術というのだったら、だれでも家で作って壁に掛ければできあがりじゃないですか」 しかしラネサンは、こう反論します。 「そうじゃないと思いますよ。それじゃ秘密というものがないですからね」 ここでラネサンは包装芸術作品の概念(イデー)を理解し、幸福感に満たされるのですが、このラネサンの科白で、 読者であるわたしも、ヤンソンの小説の概念(イデー)に触れたような気がしたのです。 無駄な叙述をきっぱりと廃するスタイル。読者はときに何の説明も与えられず、宙に放り出されたような気分になってしまう、ヤンソンの小説。 それでも彼女の小説をもっと読みたいと思うのは、そこに何か「秘密」があり、その「秘密」にひきよせられるからなのだと。 まあ、小難しい(?)芸術作品の概念(イデー)など考えずとも、ヤンソンの小説の魅力が減ずることはありません。 「ホワイト・レディ」「主役」「花の子ども」などでは、書き方によってはエグい(あえてこんな表現をするのですが)女の情念を、ヤンソンはあっさり、淡々と描き出してみせます。 情感たっぷりと描かないことによって、いっそう、女性であること、老い、ひいては生きることの、淋しさや哀しみが伝わってきます。 とにかく、淡々とした筆致なのに、女の情念のエグみがこれでもかと綴られていて、トーベ・ヤンソンの人の悪さに、にやりとさせられます。 浮世ばなれした芸術家かと思いきや、その眼差しは透徹していて、現実の輪郭が、くっきりと鮮明に見えているんですよね。 見えすぎるから、つまり感受性が強すぎるからこそ、彼女は孤独を好んだのかな、などとも考えてしまいました。 いずれにもせよ、ヤンソンの文章を読んでいると、わたしはとても落ち着くのです。 万人受けする小説ではない、と、やはり読むだびに思うのですが(^^; 2006/04/30 →Amazon「人形の家 (トーベ・ヤンソン・コレクション)」 |
「フェアプレイ」トーベ・ヤンソン・コレクション 7トーベ・ヤンソン 著/冨原眞弓 訳(筑摩書房) |
版画家のヨンナ、作家のマリ。初老とおぼしき二人の女性を主人公に、ごく短いおはなしが積み重ねられていく短篇集。 マリのアトリエの壁にかざられた絵を、ヨンナが勝手に模様替えする話「掛けかえる」、フィンランド湾沖の孤島で過ごす二人のもとに、マリの母親の知人であるヘルガという女性がたずねてくる話「あるとき、六月に」、 アリゾナ縦断の長距離バスの旅路のはて、フェニックスにたどり着いた二人が、ヴェリティというホテルの客室係と交流する話「大都市フェニックスで」等々。 舞台はくるくると移りかわり、時間の経過も、物語の並び通りというわけではありません。 トーベ・ヤンソンらしく、無駄な説明のいっさい省かれた短篇群は、読者に、さまざまな想像をめぐらしながら読む楽しみを与えています。 読み始めてすぐに気づくのは、主人公である二人の老嬢が、いかにもトーベ・ヤンソンに似ていること。 ヨンナとマリそれぞれに個性的な性格なのだけれど、そのどちらもが作者ヤンソン自身を彷彿させます。 二人の職業は版画家と作家。ヤンソンは両方を兼ねた存在なのですから、やはり二人ともが作者の分身と言えるのかもしれません。 二人の老嬢の暮らす場所は、ヘルシンキ市内のアトリエであり、フィンランド湾沖のちいさな孤島であったりしますが、これも作者自身と重なります。 他にも作者ヤンソンの姿を思わせる要素はいくつもあって、その点、ファンには面白く読める作品になっています。 トーベ・ヤンソンのファンを自認する者として、ひとつ、これはと思う要素をあげるとするなら…。 「ヨンナは立ちあがり、夕食の食器をベッドの下の箱に投げいれ、それから答える。」という一文。 これは孤島を舞台にした話「狩人の発想について」に出てくるのだけれども、ふつうに読んでいたら、なぜ洗い物の食器をベッドの下に? と思うかもしれません。 けれどもこれって、ムーミン・コミックスに出てくるエピソード、食べたあとの食器は箱にためておいて、雨が降ったら外に出して汚れを洗い流す、というムーミンママの習慣を、 几帳面なフィリフヨンカがびっくり驚いて批判する、という一場面に重なっているのです。 ムーミンママのモデルは、画家であったヤンソンの母親。 この『フェアプレイ』にしても「ムーミンシリーズ」にしても、ヤンソンの作品は、ファンタジックで超現実的なようでいて、必ず実体験をもとに描かれているんですよね。 ヨンナとマリがヤンソンの分身なのだとすれば、彼女たちの芸術家ぶり、偏屈ぶりには、ファンとして、やっぱり「にやり」とさせられます。 人間ぎらいで孤独を愛する、とっつきにくい性格。感受性が鋭くて、老いを自覚すれどもプライドは捨てきれず…。 ヤンソンさんは生前、ムーミンの生みの親として、とってもあたたかくて優しい人柄を期待されがちだっただろうな、と思うのですが、 実際はまさに「孤独を愛する、とっつきにくい性格」だったのではないかな、なんて想像してしまいます。 ヤンソン作品の、ある特徴的な表現として、この作品で気づいたことがあります。 冒頭の「掛けかえる」とい作品に出てくる、次の一文。 「文句なく一級の仕事をやりとげた仲間だけれど、心の奥底では彼らをほんとうに好きだったわけではないのだ、とふいに了解する。」 ヤンソンの作品には、登場人物が(ことに老いた女性が)何かをほんとうは好きでなかった、嫌いだったという事実に、ふいに気づくという場面が、よくあります。 嫌いだったものは、コーヒーであったり、シャンパンであったり、文句なく一級の仕事をやりとげた仲間であったりします。 誰もが好きだと言うから、薦められるから、周囲に流されて好きだと思っていた当たり前のものを、ほんとうは嫌いだったと気づく、その瞬間を、ヤンソンさんは作中で何度も繰り返し描いているのです。 わたしは、この「瞬間」を読むたびに、いつもはっとさせられます。 わたしにも、ほんとうは好きではないもの、嫌いだったものが、たくさんたくさんあるような気がして。 「掛けかえる」の最後で、「心の奥底では彼らをほんとうに好きだったわけではない」と気づいたマリは、こう思いめぐらしています。 世にも単純な事柄をようやく理解するというのは、なんとまあ、たやすいことかと。マリの感慨は、老いてこそ、たどり着ける境地なのかもしれません。 2006/09/10 *トーベ・ヤンソンには、トゥーリッキ・ピエティラという私生活でのパートナーがいました。 →Amazon「フェアプレイ (トーベ・ヤンソン・コレクション)」 |
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