■読書日記(2006年6月)


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2006年06月25日

トーベ・ヤンソン 著『太陽の街』

2006年06月18日

エリス・ピーターズ 著『修道士カドフェル(20) 背教者カドフェル』

2006年06月13日

吉田篤弘 著『78(ナナハチ)』

2006年06月05日

大畑末吉 訳『完訳 アンデルセン童話集(一)』

2006年06月03日

アリステア・マクラウド 著『冬の犬』



「太陽の街 トーベ・ヤンソン・コレクション6」

トーベ・ヤンソン 著/冨原眞弓 訳(筑摩書房)
2006/06/25

フロリダ、セント・ピーターズバーグ。
そこは温暖な気候と、快適な生活が保証された、老人たちの街。
ゲストハウス「バトラー・アームズ」には、個性的な老人たちが集まり、それぞれの孤独を抱えながら、 いまだ「老い」をうけとめきれずに暮らしています。

音楽に怯え、サングラスを手放さないエリザベス・モリス。
自らの善良さを信じてうたがわず、少女の頃の思い出を反芻しつづけているイヴリン・ピーボディ。
明晰な頭脳と、ありあまる行動力をもてあまし気味のレベッカ・ルビンスタイン。
精神的には満ち足りているものの、少し歩いただけでも体調を崩してしまうハンナ・ヒギンズ。
耳の遠いふりをして、弱い者いじめをくりかえす、偏屈なアレキサンダー・トンプソン。
「バトラー・アームズ」の事務をひきうけているものの、慢性の胃痛に悩むキャサリン・フレイ…。

他、多くの老人たちと、対比するように登場する一組の若い男女、ジョーとリンダ。彼らが織り成す人間模様が、「太陽の街」の日常を描き出します。

今回は、短めの長編です。
最初読み始めて、老人だけが住む「太陽の街」の描写に、ヤンソンらしい風刺を感じて、まずにやりとさせられました。
そもそも巻頭に、美辞麗句で<太陽の街(サン・シティーズ)>を宣伝する、アメリカ合衆国のパンフレットからの抜粋を掲げてあるところなんか、最高に皮肉だし。
トーベ・ヤンソンは、日本では、やさしいムーミン物語を書いた童話作家と思われているかもしれないけれど、 ほんとうにびっくりするほど毒舌家だなあといつも思うし、そこが魅力のひとつでもあります。

この作品は、とにかく登場人物が多く、なのに人物紹介もないので、誰が誰だか、最初はなかなか覚えにくいのですが、気にせず読み進めれば問題はありません。 特別に主人公のいない、群像劇です。
主題は、老いと死。
ヤンソンが好んで描いたテーマではないでしょうか。
テーマがテーマだけに暗いお話と思われそうですが、そうでもありません。老人たちの心理など、 老いの不安、屈辱、プライドの揺らぎが、辛辣に描き出されているのですが、どこかほのぼのとしたユーモアもあって、泥沼の雰囲気にはならず、さすがはヤンソンという感じです。

物語は起伏に富んでいます。まず、「バトラー・アームズ」の住人であるピハルガ姉妹の死。
男性の数が圧倒的に足りない、春のダンス・パーティでは、ダンスの最中に市長が倒れて亡くなります。
それから往年のミュージカルスター、ティム・テラトンの登場。皮膚のたるみのない美しい顔を維持するために、肥満も辞さないというテラトンもまた、今となっては一人の老人に過ぎません。
対して描かれるジョーとリンダの若さは、老人たちの「老い」をより克明にしています。

枯れきっていない老人たちの姿、生への執着、死への恐怖。
ほんとうは誰も、どんなに年を重ねても、枯れきってしまうことなどないのだろうな、と思いました。
そういった、情けなくてみっともない、不安や屈辱や執着を抱え続けて、誰でも生きているんだなと。

それにしても、トーベ・ヤンソンの文章を読んでいるときの、この安心感は何なのだろう、といつも思います。
老いと死が主題になっている、この作品を読んでいる最中も、ずっとそう感じていました。
人間の情けなさやみっともなさを描くヤンソンの筆致は、どこかあたたかくユーモラスで、深刻な主題を扱ってなお、後味はさわやかです。
生きることの本質的な不安を描く繊細な感受性、鋭い切り口で織り交ぜられる風刺、飄々としたユーモア。
そんなトーベ・ヤンソンの小説は、わたしにとって、いつでも匿ってくれる心のシェルターのようなもの、なのかもしれません。

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「修道士カドフェル(20) 背教者カドフェル」

エリス・ピーターズ 著/岡 達子 訳(光文社文庫)
2006/06/18

長年の内乱で疲弊するイングランド。
ようやくコヴェントリーの地で和平会議がもたれることになりますが、 会議の知らせとともに、ひとつの重大なニュースがカドフェルのもとに届きます。
カドフェルの息子オリヴィエが、捕虜としていずこかに囚われの身になっているというのです。
カドフェルは、オリヴィエの行方をつきとめ救出するため、修道院長に和平会議への出席の許可を求めます。 会議への出席は認められたものの、オリヴィエ救出のために会議のあとも修道院を不在にすることは、修道士としての誓いを破ること。
カドフェルは息子を救うため、背教者となる決意で、コヴェントリーへの旅に出ます…。

長編最終巻の今回、テーマはずばり「父と子」。
「背教者カドフェル」というショッキングなタイトルだけに(確かに修道生活が似合わないカドフェルではあるけれども)、 なぜカドフェルが背教者とならねばならないのか、なんて思っていたら、ここで息子オリヴィエが再登場するわけなんですね。
修道生活に入る前は、十字軍に参加していたカドフェル。 息子オリヴィエは、カドフェルの知らぬまま、遠い空の下で彼の愛した女性が生み育てたのですが、数奇な運命で父と子は出会うことに。
このオリヴィエとの出会いは、シリーズ第6作『氷のなかの処女』で描かれています。

で、内乱のさなか捕虜となったオリヴィエを探すため、旅に出るカドフェルですが、 修道士は「修道誓願」によって、属する修道院からは離れられない身。 息子を探すあてどない旅を続けることは、この「修道誓願」を破り、背教者になることを意味しているのです。
それほどまでの覚悟をして息子を救おうとするカドフェルですが、やはり旅の途上で葛藤し、深く悩むことになります。
悩まなかったら嘘だろうという感じで、ここらへんの複雑な人間心理の描写は、ピーターズ女史の筆が冴えわたります。

今回登場する「父と子」は、カドフェルとオリヴィエだけではありません。
先ごろ女帝モードを裏切りスティーブン王についた、フィリップ・フィッツロバート。 彼は女帝とともに、女帝の強力な擁護者である父、グロスター伯ロバートをも裏切ったことになるのですが、 この父と子の関係が、カドフェル父子と対比して、繊細微妙に描かれています。
そもそもフィリップ・フィッツロバートの裏切りで、オリヴィエは捕虜になってしまうのですが…。 このフィリップとオリヴィエの関係も緊迫感があって、二人の対面シーンは、とても面白いです。
あまり書くとネタバレになってしまうのでここではこれ以上言えませんが、とにかくフィリップの人となりが魅力的。 最後の最後になって、こんなところにもいい男が!という感じです(^^)

ピーターズ女史お得意の、若くて美しい男女の恋愛は今回とりあげられていませんが、他の見所は盛りだくさん。
コヴェントリーの和平会議の場で、オリヴィエの義弟イーヴ・ユーゴニンを巻き込んだ殺人事件が発生。
ちょこっと登場するロジャー・ド・クリントン司教は、相変わらずおいしいところを持っていってくれますし、 長編最終巻になって登場の女帝モードのキャラクターも印象深いです。
クライマックスは、フィリップの城を舞台にくりひろげられる迫力の戦闘シーン。
そして、背教者カドフェルの旅の終わりは…最後まで読んでみると、納得の結末にたどり着きます。

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「78(ナナハチ)」

吉田篤弘 著(小学館)
2006/06/13

ぱっと見て、素敵な装幀だなと思っていたのですが、読んでみると、各章の見出しページに、SPレコードを模したワンポイントが描かれており、 それがひとつひとつ異なったデザインになっているのです。
章ごとにモチーフとなっている曲をイメージした、こぶりの黒い円(まる)。なんてかわいい。
クラフト・エヴィング商會らしい細部に至るこだわりに、にんまりしながら読み進めた物語の中身は…。

「その昔、世界は78回転で回っていた」
LPレコードでもなく、シングルレコードでもなく、もうずっと昔に見当たらなくなってしまったSPレコード。
蓄音機でなければ聴くことができない、78回転で回るレコードに刻まれた、懐かしい音楽をモチーフに、いくつもの物語が紡がれてゆきます。
少年の頃の夏の日の、廃線の終着駅をめざす短い旅を描いた「オリエンタル・ツイストドーナツ」。
<78(ナナハチ)>という名のSPレコード専門店に並べられた、SPレコードが語る、店主と常連客の日々のつれづれ「第三の男」。
とある小さな楽団<ローリング・シェイキング&ジングル>の、ささやかな始まりについてのお話「ゆがんだ球体の上の小さな楽団」…。
全部で13のちいさな物語のかけらが、すべてかすかに響きあい、読み終えたあと、懐かしくてやさしくてあたたかい、ひとつながりの物語の輪郭が、おぼろげに感じられてくるのです。
丁寧に奏でられた、13の楽曲が詰まった、一枚のアルバムのように。

遠く近く、時間も空間も越えて響きあう物語の断片は、読み始めたときには、誰の何を語ったものなのかわからず、 唐突にSPレコードが喋りだしたりもして、そのちょっとした戸惑いが、また楽しくもあります。
ひとつふたつ、章を読み進めていくうちに、すべてのお話が、緊密にではなくゆるやかにつながっていることに気づくので、 次の章で、いきなり、まるで架空の国のようなところまで連れていかれてしまっても、このお話がどんなふうに、ほかのお話と響きあうのか、探っていくことも面白いのです。
間断なく続く大長編でなく、それぞれの短篇に秘密の符号をもたせて、ひとつながりに仕立て上げた長篇というのが、吉田篤弘作品の特色。
読者がそれぞれ自分で物語を組み立てられるという感じで、わたしはこの秘密の符号を探すのが大好きです。

吉田篤弘作品の特色といえば他に、「やさしさ」があげられるかと思います。
そのやさしさというのは、たとえばこんな感じ。
SPレコードが物語の語り手である「第三の男」。
<78(ナナハチ)>という名のSPレコード専門店のとなりには、<スワン>というドーナツとコーヒーのお店があり、 <スワン>の看板娘であるカナさんは、<78(ナナハチ)>のカウンターの隅に、専用の取り置き棚を持っています。
カナさんだけが自分の棚を持っているなんて、少々、店主の贔屓が過ぎるのではないか?
と、SPレコードくんは考えるわけですが、「ただ、数少ない常連のお客さんたちも棚の存在は知っていて、それが「カナさんの取り置き」だと知ると、 「ああ、そうなんだ」と、むしろ微笑ましい顔に」なるのです。
こういうやさしさの表現、吉田篤弘氏でなくてはできない、と思います。
吉田篤弘氏の綴る文章を読みながら、読者であるわたしも、いつのまにか口の端に、笑みがこぼれているのです。

この本の中だけにとどまらず、クラフト・エヴィング商會関連の、他の著作との符号もあちこちに散りばめられた、ファン必読の一冊。
もちろん、クラフト・エヴィング商會を知らない方も、この一冊を入り口に、さあ、ずずいと、架空の物語世界の、奥の奥のほうへ――

→クラフト・エヴィング商會の本の紹介はこちら

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「完訳 アンデルセン童話集(一)」

大畑末吉 訳(岩波文庫)
2006/06/05

全7冊の童話集の1冊めで、「人魚姫」「野の白鳥」「親指姫」ほか、16の作品が収められています。

「旅の道づれ」は、幸福な結末へと至る物語の随所に、豊かなイメージが織り込まれた、印象深い一篇。
父を亡くし、天涯孤独の身となったヨハンネス。父の残したわずかばかりのお金を携え、広い世の中へと旅に出ます。 ヨハンネスは、旅の途中に立ち寄った教会で、死人を棺から放り出そうとした乱暴者に、持っていた全財産を差し出し、死人を仕打ちから救います。 すると、一人旅を続けるヨハンネスの前に、不思議な道づれが現れて…。

清らかな心をもつヨハンネスが、旅の途上で目にする自然の描写が美しいです。
夜空の下の野原の中も、ヨハンネスにとってはすばらしい寝室。花咲く草原は立派な絨毯。ニワトコの茂みや野バラの生垣は花束。 顔を洗うためには冷たい小川があり、お月様は青い天井に輝く大きなランプ。

また、この物語には、美しいだけではなく、童話らしい残酷なイメージも盛り込まれています。
ヨハンネスの恋するお姫様は、悪い魔物を師匠にもち、求婚者たちにとけない謎をかけ、答えられない者をみな殺してしまいます。
お姫様が訪れる魔物の山の、恐ろしくもイメージ豊かな光景。
光グモの灯りや、赤や青にきらめく毒蛇の花、四頭の馬の骸骨の上の玉座。バラ色のクモの巣の天蓋。キリギリスやフクロウ、小人と鬼火の舞踏会。
極彩色の絵を見るような思いのする、細やかな描写。この世ならぬ魔の空間が、不思議に美しく描き出されています。

結末、白鳥の羽と薬を入れた水の中に、お姫様を三度沈めて、彼女に宿った魔法の力を消す場面。
お姫様がもがき苦しみながら、黒鳥から白鳥に、そして世にも美しい姫の姿に変化していく様は、 すぐれたアニメーションを見るようで、鮮やかなイメージが脳裏に焼きつけられました。

「幸福の長靴」は、主題の深さに衝撃を受けた一篇。
幸福の女神の小間使と、悲しみの仙女。一足の長靴を、人間の世界に持っていくよう言いつかった小間使は、 これで人間もこの世で幸福になれる時が来たと喜びます。その長靴は、履くと誰でも、望む場所、望む時へつれていってくれるという不思議な長靴。 けれど悲しみの仙女は、長靴を履いた人はきっと不幸になると言います。
さて「幸福の長靴」を履いた人々が、どうなったのか…。

悲しみの仙女の言ったとおり、「幸福の長靴」を履いた人々は、みな散々な目にあいます。突然、憧れの時代へタイムスリップしてしまって、戸惑うばかりの法律顧問官。 魂が月まで飛んで行ってしまって、恐ろしい思いをした夜警。人の心の中を通り抜ける旅をして、くたびれはてた病院の助手。 ヒバリになって人間の子どもに捕らえられ、やっとのことで逃げ出した警察の書記。
そして最後に長靴を履いた牧師志願の大学生は、いろんなところを巡る旅をして、疲れきり、とうとう「すべてのものの中で一番の幸福」を願います。 すると…。

わたしはここで、牧師志願の大学生は、故郷へでも帰って、「青い鳥」のような幸福を見つけるのかな、と思ったのです。 ところがアンデルセン童話のテーマは、もっと深遠でした。
「すべてのものの中で一番の幸福」を願ったとたん、学生は故郷の、長い白い窓掛けがたれた部屋の中で、黒い棺に横たわり、永遠の眠りについていたのです。
何とも衝撃的な展開でした。落ち着いて考えてみれば、もっともなことなのかもしれませんが…。
だけどこんな結末って、あんまりじゃないのかな? と思っていたら、おしまい、幸福の女神の小間使と、悲しみの仙女がまた現れました。
そして、悲しみの仙女が言ったこと。
「この人は自分で死んだので、召されたのではありません。この人の魂には、自分に定められた宝を掘り出すだけの力が、まだできていないのです。 わたしが、一つ恵みをほどこしてやりましょう」
悲しみの仙女が学生の足から長靴をぬがせてやると、死の眠りは終わり、彼は目をさまして起き上がりました。悲しみの仙女が姿を消すと同時に、 彼女が自分の物として持ち去ったのか、長靴も見えなくなってしまったのです。

なんとも深い内容。最後に恵みをほどこすのが「悲しみ」の仙女であるというのも、暗示的です。
アンデルセン童話というけれど、子どもが読んでも意味がわかるものなのかな、などと思ってしまいます。
けれども子どもが、大人よりも死に近い存在であるというなら、こういった生と死の秘密も、直観的にわかっているのかもしれません。

他のどの作品も、美しいイメージの中に、人生の深遠を垣間見せる、含蓄深い物語ばかり。
大人になってから、改めてアンデルセン童話にめぐりあうことができたのは、ほんとうに幸せだと思います。

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「冬の犬」

アリステア・マクラウド 著/中野恵津子 訳(新潮社)
2006/06/03

原本は『Island』という、2000年1月に出版されたアリステア・マクラウドの全短篇集。
邦訳版では、前半と後半の2冊に分けて、新潮クレスト・ブックスより、『灰色の輝ける贈り物』、『冬の犬』として刊行されました。

『Island』は、カナダ東端の厳冬の島ケープ・ブレトンを舞台に、スコットランド移民の人々の、自然に根ざした誠実な生き様を、あざやかに切りとって描き出した短篇集。
『灰色の輝ける贈り物』を読み、好きなタイプの小説ではないにしろ、その静かな熱と迫力に圧倒されて、 これは『Island』後半の短篇群『冬の犬』も、読まないわけにはいかないだろうと感じました。
またこの読書日記では、スコットランドの幻想作家フィオナ・マクラウドの短篇集『ケルト民話集』、『かなしき女王』についても紹介していますが、 これらの本で描かれるスコティッシュ・ケルトの誇りと哀しみに感銘を受け、現代を生きるケルトの末裔の姿を知りたい、との思いもありました。

アリステア・マクラウドの作品は、大上段にかまえ、声高に問題提起をしているわけではありませんが、 読むうちに、現代日本に生きるわたしたちの価値観や生き方について、考え直すことを迫られます。
書かれていることのすべてが、頭で考えられたものではなく、ほんとうに本物で、大地に根ざして生きる人間の、真実の記録だからなのだ思います。

『冬の犬』の短篇群は、そのどれもが切実で重い内容を含んでいます。
冒頭に収録された、「すべてのものに季節がある」は、なかでもとりわけ美しい一篇。
少年の頃の、クリスマスの日々の、短い回想。
ケープ・ブレトン島の冬景色。初雪の感触。サンタクロースへの祈りにも似た憧憬。
クリスマスの食卓のため殺される家畜や、そりをひく馬の息づかい。
遠いところで働いている長兄の帰りを、待ちわびる家族の姿。
ほんの十五分ほどの通勤バスの中で読んでしまえる、ほんとうに短い作品なのですが、読み終えて涙をこらえるのに苦労したほど、描かれた光景の美しさに打たれました。
アリステア・マクラウドの文章の上手さにも、唸らされます。
体調を崩し、徐々に弱っていく父の姿を、帰省して久しぶりに目の当たりにした長兄の驚き。 その長兄が、クリスマスのミサの折、近所の人に「お父さんはどうしてるかね?」とたずねられ、答えを返したときの描写。 「「ああ」と兄は言う。「ああ」としか言わない。」
この一行だけで、もうすべてがわかる、わかってしまうという文章。
行間を読ませる、無駄のない、抑制のきいた筆致。
最後の父親の言葉が、読者の胸を貫きます。
「誰でもみんな、去ってゆくものなんだ」と父が静かに言う。私は父がサンタクロースのことを話しているのだと思っている。 「でも、嘆くことはない。よいことを残してゆくんだからな」
「完璧なる調和」は、ゲール語民謡最後の歌い手と言われる一人の男の人生を通して、スコティッシュ・ケルトの誇りと哀しみを謳いあげた一篇。
『灰色の輝ける贈り物』では、暗に仄めかされる程度だったスコットランド・ハイランダーのルーツと、ケルトの伝統といったテーマが前面に出ていて、 ああ、やはりアリステア・マクラウドの言いたかったことは、これだったんだなあと思いました。
アリステア・マクラウドは、その名前からも察せられるとおり、スコティッシュ・ケルト、スコットランド・ハイランダーの末裔であるからです。
「完璧なる調和」は、主人公アーチボルドが、無器用に、朴訥に、けれど誠実に生きる姿が、つよく胸を打ちます。
そして、アーチボルドのうたうゲール語の歌の力づよさと美しさが、深く印象に残ります。
この一篇も、最後の一言に泣かされます。アリステア・マクラウドの作品は、終わり方にいつも、叙情的な余韻があります。

最後の一篇「クリアランス」も、スコットランド・ハイランダーのルーツを強調したテーマになっています。
クリアランスというのは、18〜19世紀、牧羊のためにスコットランド・ハイランドに住む人々を強制的に立ち退かせた「ハイランド・クリアランス」という歴史的事実のことで、 ケープ・ブレトン島のスコットランド移民たちは、このクリアランスで故郷を追われた人々の子孫なのです。
新天地で、家族が幸せになれると信じ、土地を切り拓き、作物や家畜を育て、漁に出て…ひたすら前に進んできた人々が、 島の観光地化や、パルプ用材のための木の伐採、自然保護運動や漁獲割当量の変更など、さまざまな理由で、それまでの暮らしを続けられなくなっている現状が描かれています。
最後あたりの、主人公のモノローグには、打ちのめされます。
「俺たちは、こんなことになるために生まれてきたんじゃない」
時代の波に押し流されようとしている、誇り高き民族の末裔の姿に、わたしたち日本の読者は、考えさせられることが多いはずです。

これらの短篇で描かれたテーマを、より深く追求し、カナダで大ベストセラーとなった、アリステア・マクラウド唯一の長篇『彼方なる歌に耳を澄ませよ』を、 続けて読んでみたいと思っています。

→「ふたりのマクラウド〜スコティッシュ・ケルトの誇り〜」はこちら
→「新潮クレスト・ブックスの魅力」はこちら

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