■おすすめ詩集

〜詩は、もっと気軽に読んでいい〜


本好きを自称する管理人も、詩を読むようになったのは、社会人として働きはじめてから。
なんとなく難しそうで、詩集に対しては苦手なイメージを抱いていたのですが、手にとってみると珠玉の言葉たちがずらり。またひとくちに詩集と言っても、挿絵や写真が添えられたものなど、スタイルもさまざまです。
いつも書店の片隅に、ひっそりと埋もれている感のある詩集。でも、詩って、もっと気軽に読んでいいものでは?
このページでは、管理人が心癒された、それぞれに持ち味のちがう素敵な詩集をご紹介します。


↓タイトルをクリックすると紹介に飛びます。


谷川俊太郎+吉村和敏「あさ/朝」

長田 弘「深呼吸の必要」

岸田衿子「ソナチネの木」「いそがなくてもいいんだよ」「たいせつな一日」

蕗谷虹児「花嫁人形」

オマル・ハイヤーム「ルバイヤート」

ロバート・ルイス・スティーヴンソン「ある子どもの詩の庭で」

ウォルター・デ・ラ・メア「孔雀のパイ」「妖精詩集」

クリスティーナ・ロセッティ「シング・ソング童謡集」「クリスチナ・ロセッティ詩抄」

エミリー・ディキンソンの詩集→紹介ページへ




「あさ/朝」

谷川俊太郎 著/吉村和敏 写真(アリス館)
あさ/朝
「赤毛のアン」の舞台として知られる、プリンス・エドワード島を中心としたカナダの美しい<あさ>を撮った写真と、谷川俊太郎氏の<朝>をうたった詩とのコラボレーション。 右からページをひらくと詩集、左から読むと写真絵本として楽しめる、ちょっと変わった体裁の一冊です。
まず吉村和敏氏の写真が、なんとも美しい!
プリンス・エドワード島の美しい自然は、モンゴメリの名作『赤毛のアン』の作中でも、主人公アンが感動とともによく語っていますが、アンの見た夜明けも、こんなふうだったのかなあと思ったり・・・。

谷川俊太郎氏の詩のすばらしさは言うまでもありません。もうずいぶん前のことですが、CMでとりあげられ話題になったという、あの有名な詩『朝のリレー』も収録されています。
でもわたしにとって『朝のリレー』は、CMより、学校の教科書に載っていた詩として印象深いものがあります。
「カムチャッカの若者が…」ではじまる、あのフレーズは、つよく心に刻まれていて、テレビCMで耳にしたときも、とても懐かしかったのだけれど、この本で読みかえしてみて、また改めて、すばらしい詩だなと感じました。
読んでいると<あの頃>が思い出されて、なんだかせつなくなるのです。
<せつない>なんて、ひさしぶりに使う、気恥ずかしい言葉だけれども。
朝のリレー

カムチャッカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている

ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る

眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

『あさ/朝』(右から読んだ場合の)4ページより

→Amazon「あさ/朝

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「深呼吸の必要」

長田 弘 著(晶文社)
深呼吸の必要
2004年製作の篠原哲雄監督の映画『深呼吸の必要』の元になった本ということですが、初版はもっと古く1984年。
この詩集、装幀が贅沢で、表紙が古い本の佇まいを残す布張りなのです。表紙カバーのイラストレーションは、いまは雑誌『アルネ』の企画編集でよく知られている、イラストレーターの大橋歩さん。本文テキストは緑のインクで刷られています。

長田弘氏の詩は、たしかむかし国語の教科書に載っていて、ずっと気になっていた詩人だったのですが、 学生時代は詩集というものがなんとなく苦手で、買うのをためらっていたのです。
社会人として働きはじめて、<深呼吸の必要>を切実に感じるようになり、やっと読むべきときがきたのだと思って、ついに購入して読んでみました。
思えば、本の蒐集をはじめて最初に買った詩集が、この本でした。
涙が出ました。「もう二どともどれないほど、遠くまできてしまった」ということ。「失くしてしまった想い出」の、とうとさ。
そして「立ちどまって、黙って」「言葉を深呼吸する」ということの必要。
 ときどきアントン・パーヴロヴィチの短い
話を読む。人生はいったい苦悩に値するもの
なのだろうかと言ったチェーホフ。大事なの
は、自分は何者なのかでなく、何者でないか
だ。急がないこと。手をつかって仕事するこ
と。そして、日々のたのしみを、一本の自分
の木と共にすること。
『深呼吸の必要』所収「贈りもの」119-120ページより

→長田 弘 作/荒井良二 絵『森の絵本』の紹介はこちら

→Amazon「深呼吸の必要

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「ソナチネの木」

岸田衿子 著/安野光雅 絵(青土社)
ソナチネの木
岸田衿子氏の詩と、安野光雅氏の絵とが融和した、詩集でもあり絵本でもあるような、美しい一冊。
詩人、童話作家であり、『のばらの村のものがたり』や『かえでがおか農場のいちねん』、 『こねこのミヌー』など絵本の翻訳でも知られる岸田衿子さんの短詩は、平易な言葉でありながら深く、美しく、心の奥底に響いてきます。
安野光雅氏の絵は、幻想的で、音楽的で、なんとも不思議な味わい。おそらくは古めかしさを演出するために、黄ばんだ紙に描かれた絵は、砂漠に埋もれた岩壁に、古のひとびとが遺した壁画のよう。
そして紙の向こうにはうっすらと、楽譜が透けて見えるのです。
どこか遠くから聞こえる、かすかな旋律のように。
装幀もとても凝っていて、テキストはまっすぐに並んでいるだけではなく、ぐにゃりと曲がっていたり、逆さまになっていたり、絵の外に転がり出ていたりするのです。

この本の中に入ってゆくと、時を刻む砂に埋もれた遠い日々が、慕わしく甦ります。
なぜ 花はいつも
こたえの形をしているのだろう
なぜ 問いばかり
天から ふり注ぐのだろう

『ソナチネの木』34ページより

→「岸田衿子の本」はこちら

→Amazon「ソナチネの木

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「いそがなくてもいいんだよ」

岸田衿子 詩(童話屋)
いそがなくてもいいんだよ
『ソナチネの木』を読んで、岸田衿子さんの言葉に惹かれるものを感じ、『たいせつな一日』とともに購入した詩集。
『たいせつな一日』と同じく、『忘れた秋』『あかるい日の歌』『ソナチネの木』などの既刊詩集から編まれたアンソロジーです。そのため、この2冊の詩集のうちには重複して収録されている作品もあります。

『いそがなくてもいいんだよ』は、こぶりの文庫サイズのハードカバーという、かわいらしい装幀の、童話屋の詞華集のシリーズのなかの一冊です。
収録されている詩はどれも短く読みやすく、そして珠玉の作品ばかり。
ところどころ、古矢一穂さんの、繊細で美しい草花の絵がそっと添えられています。
岸田衿子さんの詩は、感受性のつよい少女が書いたようで、でもとても年取ったおばあさんが書いたような、不思議な味わい。
この本は鞄の中に入れて持ち歩きやすいサイズなので、詩人の言葉に身近に親しむのに、適した一冊だと思います。
南の絵本

いそがなくたっていいんだよ
オリイブ畑の 一ぽん一ぽんの
オリイブの木が そう云っている
汽車に乗りおくれたら
ジプシイの横穴に 眠ってもいい
兎にも 馬にもなれなかったので
ろばは村に残って 荷物をはこんでいる
ゆっくり歩いて行けば
明日には間に合わなくても
来世の村に辿りつくだろう
葉書を出し忘れたら 歩いて届けてもいい
走っても 走っても オリイブ畑は
つきないのだから
いそがなくてもいいんだよ
種をまく人のあるく速度で
あるいてゆけばいい

『いそがなくてもいいんだよ』12-13ページより
(この詩は『いそがなくてもいいんだよ』『たいせつな一日』2冊ともに収録されています)

→「岸田衿子の本」はこちら

→Amazon「いそがなくてもいいんだよ

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「たいせつな一日」

岸田衿子詩集
水内喜久雄 選・著/古矢一穂 絵(理論社)
たいせつな一日―岸田衿子詩集 (詩と歩こう)
『ソナチネの木』を読んで、岸田衿子さんの言葉に惹かれるものを感じ、『いそがなくてもいいんだよ』とともに購入した詩集。
『いそがなくてもいいんだよ』と同じく、『忘れた秋』『あかるい日の歌』『ソナチネの木』などの既刊から編まれたアンソロジーです。そのため、この2冊の詩集のうちには重複して収録されている作品もあります。

『たいせつな一日』は、A5判型の単行本で、理論社の「詩と歩こう」というシリーズのなかの一冊。 やはり古矢一穂さんによる細密な草花の絵が添えられていて、岸田さんは古矢さんの絵をとても気に入っておられるよう。
この本には、巻末に選著者の水内喜久雄さんによる「岸田衿子さんをたずねて」という文章があり、とても興味深いです。 この文章のなかで岸田さんは自身のことを「対象のなかに入りやすい」と語っており、岸田さんの詩の不思議な味わいの秘密は、そこにあるのかなと感じました。
あかるい日の歌

峠道を
ちょうちょのあとから
のぼってゆくと
ちょうちょはいなくなり
わたしだけのぼってゆきます

森へ ちょうちょと
入ってゆくと
わたしがいなくなり
ちょうちょだけ とんでゆくのが
見えます

『たいせつな一日』20-21ページより
(この詩は『いそがなくてもいいんだよ』『たいせつな一日』2冊ともに収録されています)

→「岸田衿子の本」はこちら

→Amazon「たいせつな一日―岸田衿子詩集 (詩と歩こう)

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「花嫁人形」

抒情詩画集
蕗谷虹児 文・画(国書刊行会)
花嫁人形―抒情詩画集
『花嫁人形』という童謡を聴いたひとは、誰でもふしぎに思うことでしょう。
「きんらんどんすの/帯しめながら/花嫁御寮は/なぜなくのだろう」
どこか物悲しいメロディでそう歌われるのを聴いたとき、人生でいちばん幸福な日を迎えたはずの花嫁さんが、なぜ泣くのだろう?と、わたしも思ったことでした。
そして、日本の現代の結婚と、昔の結婚とは、意味がまったく違うのだろうと考えたりしました。
この印象深い童謡『花嫁人形』の作詞をしたのが、蕗谷虹児です。
蕗谷虹児(ふきや こうじ)は、竹久夢二の紹介により少女雑誌に絵や詩を発表し、画家、イラストレーター、詩人、グラフィック・デザイナーとしても活躍した、多才な人だったということです。
第2次大戦前、1920年代から30年代にかけて、多くの画家たちがパリに渡り生活した時代、彼もまたパリに留学し、サロン・ナショナル、サロン・ドートンヌに絵を出品しています。

童謡『花嫁人形』もおさめられたこの詩画集は、昭和10年に刊行されたものの復刻版です。やさしい言葉でつづられた抒情詩にモノクロの挿絵が付され、カラー口絵も数点掲載、またサロンに出品した絵も含まれています。
判型は、118mmx 158mm と小さいながら、ハードカバーで、美しい函入りです。この表紙画像は、函の絵。本体の表紙は、黒地に金と橙色の箔押しになっています。
収録された50以上の詩は「花嫁人形」「合歓の目覚め」「浮世絵双紙」「暁鐘」と4つの章に分けられ、日本的な情緒のなかに、蕗谷虹児が暮らしたヨーロッパ、パリの香りも感ぜられます。
そしてどの詩も、なんとはなし物悲しいのです。
可憐な挿絵とさびしいような詩、しずかにひそやかに楽しみたい、小さいけれども贅沢な詩画集です。
夜中の月

夜なかの お月さま
ひとりぽち
さみしさ まぎらす
水かがみ
泣いたり 笑ふたり
ゆがんだり

あの子の お家は
どこかいな
一目 寝顔が
拝みたや
そうと 窺いといて
雲がくれ

夜なかの お月さま
さびしかろ
たあれも 見送る
ひとがない
森の中 山のかげ
ひとり旅
『花嫁人形』23-24ページより

→恵文社一乗寺店『花嫁人形』紹介ページで、中の画像が確認できます
→「蕗谷虹児記念館|-Official Site」はこちら

→Amazon「花嫁人形 蕗谷虹児詩画集
→セブンネットショッピング「花嫁人形 抒情詩画集icon

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「ルバイヤート」

オマル・ハイヤーム 著/小川 亮作 訳(岩波文庫)
ルバイヤート (岩波文庫 赤 783-1)
『喜びの泉 ターシャ・テューダーと言葉の花束』(メディアファクトリー)の中に、オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』からの引用がいくつかあります。
大学生のときに読んで以来、本棚の奥に眠っていた詩集。ターシャ・テューダーの絵本をきっかけに思い出して、ひさしぶりに手にとってページを繰ってみたのです。
11世紀ペルシアの詩人ハイヤームの四行詩(ルバイヤート)。学生の頃は、いまいちぴんとこなかったのですが、あらためて読んでみると、いま、日々感じているようなことを歌った詩が、たくさんありました。

19世紀イギリスの詩人フィッツジェラルドの英訳本によって多くの人々に知られるようになったという、 あまりにも有名なこの詩集。ターシャもフィッツジェラルドの英訳を読んだようです。
生への懐疑。死すべき運命。万物は流転するということ。この世のすべてが無常であること。 そして一瞬のよろこびは、永遠であるということ。
オマル・ハイヤームは科学者であり哲学者でもあったと言いますから、その世界観、人生観は普遍的なものです。 かといって難解な詩かというとそうではなく、四行詩という短く読みやすい一篇一篇のなかに、深遠なテーマが込められているのです。
いろいろな経験をつむほどに、味わいの増してくる言葉たち。人生の途上で、何度も読み返すことになる一冊だと思います。
地の表にある一塊の土だっても、
かつては輝く日の面、星の額であったろう。
袖の上の埃を払うにも静かにしよう、
それとても花の乙女の変え姿よ。
『ルバイヤート』53ページより

→ターシャ・テューダーの本の紹介はこちら

→Amazon「ルバイヤート (岩波文庫 赤 783-1)
ルバイヤート (ワイド版 岩波文庫)

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「ある子どもの詩の庭で」

ロバート・ルイス・スティーヴンソン 詩/イーヴ・ガーネット 絵/
間崎ルリ子 訳(瑞雲舎)
ある子どもの詩の庭で
『ある子どもの詩の庭で』は、原題を『A Child's Garden of Verses』といい、『宝島』『ジキル博士とハイド氏』などの作品で知られるロバート・ルイス・スティーヴンソンが、自身の子どもの頃の思い出を歌った詩集です。
子どものための韻文詩集として、英語圏ではよく親しまれており、チャールズ・ロビンソン、ウィルビーク・ル・メール、ジェシー・W・スミス、ブライアン・ワイルドスミス、ターシャ・テューダーなど、数多くの画家たちが美しい絵を寄せていることでも知られています。
日本でも『童心詩集』『子どもの詩の園』などの邦題で、何冊か邦訳版が刊行されてきましたが、韻文詩という性質上、英語圏で親しまれているほどには、日本では読まれていないという感じを受けます。
2010年9月、下記に紹介しているウォルター・デ・ラ・メア『孔雀のパイ』を発行している瑞雲舎から、『A Child's Garden of Verses』の全訳として、『ある子どもの詩の庭で』が刊行されたことは、喜ばしい限りです。

A Child's Garden of Verses (Puffin Story Books) A Child's Garden of Verses 『ある子どもの詩の庭で』は、イーヴ・ガーネット挿絵による『A Child's Garden of Verses』(左の画像、版がいろいろあります)の邦訳版です。
イーヴ・ガーネット挿絵の『A Child's Garden of Verses』は、過去に『童心詩集』として英光社から、原作+注解と、日本語訳の二冊組み、函入り本として刊行されています。
こちら瑞雲舎版では、英文は併記されず、絵もテキストもブルーのインクで刷られており、イーヴ・ガーネットのやさしい鉛筆画に、心なごむ装幀となっています。
詩の邦訳は、原詩で読んだときのリズムや脚韻が、どうしても失われてしまうわけですが、間崎ルリ子さんの丁寧な仕事によって、スティーヴンソンが詩に込めた思いが、じんと伝わってきます。
わたしの好きな詩もいろいろありますが…「点灯夫」「見えない友だち」「冬の絵本」…きっと、読者がそれぞれに、共感し、心あそばせるこのできる詩が見つかると思います。

スティーヴンソンの子ども時代の輝きを閉じ込めたこの詩集は、ごく個人的な思い出が歌われていながら、同時にすべての子どもたち、かつて子どもだった大人たちにとっても、普遍的な永遠の「詩の庭」であり続けていくことでしょう。
きみも、この本の窓をとおして、
遠くの遠くの、ある庭で
ひとりの子どもが遊んでいるのを見るでしょう。
でも、いくら窓ガラスをコツコツと、たたいてみても、
その子にその音は聞こえない。
(略)
なぜって、その子は、ほんとうは、
はるか昔に大きくなって、その庭から出ていって、
今はそこには、おりません。
その庭に今もいるのは、その子の心。
今も、心はその庭にとどまって、こうして遊んでいるのです。

―間崎ルリ子 訳『ある子どもの詩の庭で』118ページより

→瑞雲舎「ずいずい・ぶろぐ」で、イーヴ・ガーネットの挿絵を確認できます。

→「A Child's Garden of Verses ―子どもの詩の園―」はこちら

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→セブンネットショッピング「童心詩集

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「孔雀のパイ」

ウォルター・デ・ラ・メア 詩/エドワード・アーディゾーニ 絵/間崎ルリ子 訳
(瑞雲舎)
孔雀のパイ―詩集
『孔雀のパイ』は、英国の子どもたちが親しんでいるデ・ラ・メアの詩に、絵本作家エドワード・アーディゾーニが絵を添えた、とても美しい詩集です。
なにしろ装幀が素敵で、カバーをはずした本体の表紙は、デ・ラ・メアの妖精詩にこの上なくふさわしい、幻想的なイラストで彩られており、タイトル「孔雀のパイ」という言葉が、金色で箔押しされています。 また本文も挿画も、栗色のインクで刷られているところなども、たいへん趣深いです。

デ・ラ・メアの詩集のなかでも、たいへん有名な『孔雀のパイ』。
この本は、マザーグースにそのルーツを辿ることができる英国独特のナンセンス詩や、アーディゾーニのあたたかみある挿絵によって、下記で紹介している『妖精詩集』よりも、日本の子どもたちに親しみやすい詩集に仕上がっていると思います。
でもやっぱり、デ・ラ・メアの奥深い幻想世界は、子どもだけでなく大人にも、ゆっくり味わってほしい。
ナンセンス詩などは、やはり工夫を凝らした翻訳でも限界があると思うので、その楽しさ面白さは少なからず損なわれてしまっているでしょうが、 デ・ラ・メアの好むモチーフがいくつも散りばめられた多くの詩に、独特の不思議な、なぞに満ちた雰囲気、「幼な心の詩人」ならではの魅力が凝縮されています。
子どもにも面白く、またデ・ラ・メア作品の真髄を伝える詩として、一篇だけ(選ぶのに悩みましたが)ここに引用したいと思います。

なぞが、なぞのまま明かされない。ただ不思議として、そこにある。
子どもの頃わたしたちは、そんな世界のなかに、たしかに生きていました。
だれか

だれかがドアをノックした。
たしかに、たしかにノックした。
耳をすましてドアを開け、
右や左を見たけれど
夜のしじまをやぶるもの、
なにひとつ見つかりはしなかった。
ただカブトムシがかべを這い、
森ではフクロウがないていた。
夜露がしずかにおりてきて、
コオロギがひそやかに歌ってた。
けれども、だれがきたのかは
どうしても、どうしてもわからない。
わたしのちっちゃな家の戸を
ノックしたのがだれなのか、
どうしても、どうしてもわからない。

『孔雀のパイ』16ページより

→「ウォルター・デ・ラ・メアの本」はこちら

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「妖精詩集」

W.デ・ラ・メア 著/荒俣 宏 訳(ちくま文庫)
妖精詩集 (ちくま文庫)
ちくま文庫復刊フェアで、ロード・ダンセイニ『妖精族のむすめ』などとともに、めでたく復刊したこの本。
「幼な心の詩人」と評される、英国の詩人、幻想小説家ウォルター・デ・ラ・メアの詩に、ドロシー・P・ラスロップの愛らしい絵が添えられた、文庫としては贅沢な一冊です。
訳者の荒俣氏は幻想小説のみならず、挿絵本の紹介者としても、つとに名高い方ですので、ロード・ダンセイニ『妖精族のむすめ』にしろ、 ジョージ・マクドナルド『リリス』にしろ、挿絵も大きな魅力のひとつとなっています。

この『妖精詩集』の原本は、
Down-Adown-Derry (Constable Co.Ltd.,London,1922)。
デ・ラ・メアの名前は知っていたのですが、実際に読んだことはなく、復刊フェアをきっかけに手にとってみて、とても良かったです。
デ・ラ・メアの作風は、「夢の中に暮らす幼年期の感性」と、あとがきで荒俣氏も述べているとおり、じつに夢幻味あふれるもの。
妖精を題材にした詩の数々は、昔話のような味わいもあり、読んでいるうちに、夢と現の境界が曖昧になる感覚が味わえるのが魅力です。
耳もとに、月光のようにあえかな、妖精たちの笑い声が聞こえたかと思うと、そのまま、あちら側の世界へ連れ去されてしまいそうな。そんな不思議な浮遊感。
こんなふうに、ほんものの夢を見続けることができたデ・ラ・メアだからこそ、「幼な心の詩人」と呼ばれたのでしょうね。
これも訳者あとがきにあったのですが、「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」という、江戸川乱歩の座右の銘が、 デ・ラ・メアの名言だったなんて、知りませんでした。
大好きな言葉だったのですが、これはデ・ラ・メアのオリジナルだったのですね。

「幼な心」とは言っても、この本に登場する妖精たちは、シシリー・メアリー・バーカーの描いたフラワー・フェアリー(→Click!)のような、陽のひかりを感じさせる、やさしくて愛らしいだけの隣人ではありません。
月夜や黄昏、闇の帳の向こう側に住む、妖しく魔的な、だからこそ魅力的な存在として描かれており、英国圏での妖精信仰について知る上でも、たいへん興味深いです。

月光の下、妖精の輪(フェアリー・リング)に誘われ、踏み迷ってみたいなら、ぜひ一度お手にとってみてください。
楽しいよ、楽しいよ

「楽しいよ、楽しいよ、
緑林(グリーンウッド)が藍色の海を見おろすあたりは。
澄んで動かぬ月明のなかをそぞろ歩いたり、
谷間や丘で
エルフたちと踊るのは。
妖精のお酒を味わったり、
玉つゆやはちみつをさがして
エルフたちと野原を歩きまわるのは。
さあ、丘へ登ろう、おいでよ、早く、
そして妖精たちと暮らそうよ、エリザベス・アン!

「妖精が住んでる古い館には、
なみだも悲しみもないんだ。
すてきな竪琴の調べと
遠い鐘からひびく寂しげな音が聞こえるだけ。
タイムとヒースの丘にはね、
羊飼いが群れうごく羊とともに坐ってる、
巻貝が這いまわる砂浜には
だいしゃくしぎが鳴いて、ヒバリが飛びまわってる。
だから登ろう、おいでよ、早く、
そして妖精たちと暮らそうよ、エリザベス・アン!」

『妖精詩集』103-104ページより

→「ウォルター・デ・ラ・メアの本」はこちら

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「シング・ソング童謡集」

クリスティーナ・ロセッティ SING-SONG A NURSERY-RHYME BOOK 訳詩集
クリスティーナ・ロセッティ 著/安藤幸江 訳(文芸社)
シング・ソング童謡集―クリスティーナ・ロセッティSING‐SONG A NURSERY‐RHYME BOOK訳詩集
イギリスの絵本画家バーナデット・ワッツの作品に、『とんでいけ海のむこうへ』という絵本があります。 この詩画集ともいうべき一冊には、ヴィクトリア朝の詩人クリスティーナ・ロセッティの22編の詩がおさめられています。
これらの詩はもともと、1872年にロンドンのGeorge Routledge and Sons社から出版された、『Sing-Song』という童謡集に収録されていたもの。 『Sing-Song』は、ラファエル前派の重要な画家の一人である、アーサー・ヒューズの挿絵入りで刊行されました。
『シング・ソング童謡集』は、原書初版時のアーサー・ヒューズの格調高い挿絵121点が掲載され、ヴィクトリア朝時代の雰囲気も味わうことができる、とても価値ある訳詩集だと思います。

クリスティーナ・ロセッティの童謡風の初期の詩は、やはり素晴らしいです。
わかりやすく、みずみずしい言葉ににじむ、あたたかさ、やさしさ。
やさしいだけじゃない、自然と現実を見つめる眼差し。
自然への親しみに満ちた眼差しは、19世紀のアメリカ詩人エミリー・ディキンソンにも通じるものがあると感じました。
くさのはの あいだで
きよらかな あかるいめをした ヒナギクたちは
どの ヒナギクも ほしのよう
みどりの そらの なかから

『シング・ソング童謡集』61ページより

→バーナデット・ワッツ『とんでいけ海のむこうへ』の紹介はこちら
→エミリー・ディキンソンの紹介はこちら

→Amazon「シング・ソング童謡集―クリスティーナ・ロセッティSING‐SONG A NURSERY‐RHYME BOOK訳詩集

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「クリスチナ・ロセッティ詩抄」

クリスチナ・ロセッティ 著/入江直祐 訳(岩波文庫)
クリスチナ・ロセッティ詩抄 (岩波文庫) 『クリスチナ・ロセッティ詩抄』は、2006年2月にリクエスト復刊。初版の発行は、1940年でした。
日本語訳は旧仮名遣い、文語体のものもありますが、ヴィクトリア朝の詩人クリスティーナ・ロセッティの詩に、しっくり合っていると思います。
クリスティーナの兄、ラファエル前派の画家ダンテ・G・ロセッティ(→Click!)も絵を寄せ、数々の画家たちの想像力を刺激した題材であったという物語詩「Goblin Market」が、「お化け商人」というタイトルで収録されているのも、たいへん興味深いです。
もちろんこの岩波文庫の訳詩集に挿絵はないので、一度は挿絵入りで読んでみたいなあという希望もあります。

なにはともあれ「岩波文庫にクリスティーナ・ロセッティの詩集が無いなんて、そんなバカな!」と思っていたので、復刊されたことは嬉しい限りです。


誰が一體 風を見た。
 私もあなたも見たことないが
枝の垂葉がゆれるとき
 風が通つてゐるのです。

誰が一體 風を見た。
 あなたも私も見たことないが
梢がお辭儀をするときは
 風が渡つてゐるのです。

『クリスチナ・ロセッティ詩抄』115ページより

→Amazon「クリスチナ・ロセッティ詩抄 (岩波文庫)
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かぎられた、小さな、すばらしい世界
「エミリー・ディキンソンの本」はこちら

少女のようで、おばあさんのような
「岸田衿子の本」はこちら

挿絵とともにたのしむ
「A Child's Garden of Verses ―子どもの詩の園―」はこちら

挿絵とともに詩を楽しむなら・・・
「大人のための絵本―絵本で味わう詩の世界」はこちら



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