■読書日記(2006年2月)


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2006年02月25日

エリス・ピーターズ 著『修道士カドフェル(19) 聖なる泥棒』

2006年02月19日

ル=グウィン 作『ゲド戦記外伝』

2006年02月13日

アーサー・ラッカム 絵『不思議の国のアリス 新装版』

2006年02月05日

コナン・ドイル 著『回想のシャーロック・ホームズ』



「修道士カドフェル(19) 聖なる泥棒」

エリス・ピーターズ 著/岡本浜江 訳(光文社文庫)
2006/02/25

略奪者ジェフロワの死によって返還されたラムゼー修道院。泥棒やならず者によって荒らされた教会の再建のため、各地に寄付を求めてまわるラムゼーの使者が、シュルーズベリを訪れます。
救いの手を求める願いは速やかに聞き入れられ、寄付金や教会修復のための職人も集まったのですが、折しもセヴァーン川の氾濫による洪水で、カドフェルたちの修道院も危機にさらされます。
洪水はじきにおさまったものの、避難の騒ぎの最中に、なんと修道院のたいせつな聖遺物、聖ウィニフレッドの聖骨箱が盗まれてしまいました。 盗難の嫌疑は、ラムゼーからの使者のひとり、見習い修道士チューティロにかけられます。
ところが証人として出頭するはずの羊飼いアルドヘルムが、死体となって、疑惑の張本人チューティロに発見されるのです。
犯人は、やはりチューティロなのでしょうか?

今回は、前作『デーン人の夏』から、またシュルーズベリに舞台が戻り、修道院ならではの、さまざまな出来事が展開します。
まず、聖ウィニフレッドの聖骨箱の盗難事件。
巻末の解説によると、中世では聖人の遺骨や遺灰などの「聖遺物」が、修道院の繁栄の鍵を握っていたようです。
聖ウィニフレッドの遺骨も、はるばるウェールズから、カドフェル修道士たちの手で、シュルーズベリに運ばれてきたもの。
『修道士カドフェル(1) 聖女の遺骨求む』に、この折のお話がくわしく語られています。
聖ウィニフレッドの遺骨には、カドフェルが深くかかわった、ある秘密が隠されていますので、今作を読む前に『聖女の遺骨求む』を読んでおくほうがいいかもしれません。
この「聖遺物」というもの、よその聖堂から盗んできて、だからこそ本物だと言い張る、というようなことが、中世修道院ではかなり行われていたのだそうです。 「神聖盗掠(フルタ・サクラ)」といって、信仰による正当な行為とみなされていたとか。だから、聖女の遺骨を盗む者は『聖なる泥棒』というわけなのですね。
現代人にはちょっと理解しにくい、中世修道院の事情。詳しくは巻末の解説をご参照あれ。

修道院ならではの展開として、今回とくに興味深かったのは、「聖書占い」のくだり。
一度は盗み出された聖ウィニフレッドの遺骨。「神聖盗掠(フルタ・サクラ)」を主張して、わが修道院に迎えたいという、ラムゼーの副院長補佐ヘールイン。 いや聖女の遺骨は間違いなく当方のものだと、カドフェルたちの副修道院長ロバートも、もちろん負けてはいません。 そこへ、ひょんなことから盗まれた聖骨箱を一時預かることになった、レスター伯ロバート・ボーモントも加わって、 3者が聖ウィニフレッドの遺骨の所有権を主張します。
そこでカドフェルたちの修道院長ラドルファスが提案したのが、「聖書占い」によって、聖女本人のご意志をうかがおうというもの。
「聖書占い」というのは、当時の司教たちの聖職受任式においても行われていた、神聖な儀式で、 福音書のページを適当に開いて指をあて、そこに書かれている文句から、将来を占うものらしいです。
え〜、こんな大事なことを、占いなんかで決めちゃっていいの!?
と(ラドルファス院長には失礼ながら)思ってしまいましたが、どうやらヒューも同じように考えたらしく、 「その占いとやらで論争の結論を出すのは危険ではないのか?」なんてカドフェルに言っていました。
ところがやはり舞台は中世。「聖書占い」の場で、これまでにも何度もあった聖女の奇跡が、いまふたたび起こり、意外な事件の真相を、白日のもとにさらしたのです。
聖女の奇跡があらわれる場面は、疑いながら読んでも、なかなか荘厳で、息をのむものがありました。
事件の真相を言い当てる文章を、ラドルファス院長が集まった皆の前で読み上げるところなんか、とてもドラマティック。
まさに、中世の修道院ならではの展開が楽しめました。

レスター伯ロバート・ボーモントのキャラクターが、とっても魅力的。 修道院に滞在中の吟遊詩人(さずがは中世!)の一行も興味深いし、 『修道士カドフェル(17) 陶工の畑』に登場した、ドナータの天国への旅立ちもあり、今作も読み応えたっぷりの内容でした(^^)

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「ゲド戦記外伝」

ル=グウィン 作/清水真砂子 訳(岩波書店)
2006/02/19

<ゲド戦記>シリーズは、アースシーという、竜と魔法が息づく多島海世界を舞台に展開されるファンタジーで、 ゲドという大賢人にまでなった魔法使いの生涯を軸に、このふしぎな世界のあらゆる側面が描き出されています。
アースシーという異世界は、すなわち、わたしたちが生きるこの世界をうつしだす鏡のようなもの。
文化人類学的な知識を駆使し、細部まで完璧とも思える精度で構築された異世界は、 <ナルニア国ものがたり>や<指輪物語>などの、すぐれたイギリス産ファンタジーとは、また手触りが違います。
<ゲド戦記>からは、土と血と死のにおい、深い闇にねざした、骨太の世界観が感じられます。

『ゲド戦記外伝』には、「カワウソ」「ダークローズとダイヤモンド」「地の骨」「湿原で」「トンボ」の5短編がおさめられており、 作者の熱のこもった「まえがき」と興味深い「アースシー解説」が添えられています。

「カワウソ」は、とにかく暗く重く、厳しい物語でした。暗黒時代と呼ばれる不安な時代のできごとを描いたもので、 そこまで書く必要があるのかと思うほど辛い場面もいくつかありました。
死を、欺瞞を、偽りを、無常を、そして希望を、これほど真正面から、真摯に見据える作者のまなざしに驚くばかりです。

「地の骨」は、ゲドの師匠オジオンと、その師匠のダルスが、大地震を鎮めて、ゴント島を救ったお話。
これだけ書くと、偉大な魔法使いが、人々を救い、感謝されて、めでたしめでたしの結末なのかなと思ってしまうかもしれませんが、 そこはル=グウィン女史、そんなありきたりの展開ではありませんでした。
大地震を鎮めるのは、魔法の息づく世界でも、生半可な力と覚悟ではできないことのようです。
結末が悲しく、静かで、そこがとても素敵でした。

「湿原で」は、ゲドの大賢人時代のエピソードですが、ゲドはちらりとしか登場しません。
大きな魔法も事件もない地味なお話なのですが、人と人との出会いのたいせつさを描いた、しみじみとして味わい深い作品。
大魔法使いが、驕り、あやまちを犯し、逃げ、流浪し、やがて魔法使いではないけれど賢くやさしい女性と出会って、 大切な何かを学ぶのですが、この大魔法使いの科白が、印象に残ります。
「わたしにはほかの人たちのことがわかっていませんでした。ほかの人たちが他者だということが。 わたしたちはみんな他者なのに、そうでなくてはならないのに。わたしは間違っていました」
誰もがときおり忘れがちになるこのことを、いつも胸に刻んで、見失わないようにしたいと思います。

久しぶりにこの<ゲド戦記>シリーズの一冊を手にとって、なんともふしぎに思えることがありました。
ファンタジーなのに、幻想の入り込む余地がないのです。 美しい空想、ロマンとでもいうようなものが、まったく感じられないのです。
読者は、物語を読みすすむうち、想像の翼を自由にはばたかせるより、現実の問題に目を向けざるを得なくなります。
ファンタジーとしては、ある側面では成功しているし、ある側面では失敗していると言えるかもしれません。
ファンタジーには、現実世界をうつす鏡の効用がありますが、<ゲド戦記>ほど克明にうつしだす鏡もないでしょう。 ことに女性の視点が生かされて、地に足のついた人間観が描かれています。
しかし、ひととき現実からはなれ、美しいものに触れ、心のみずみずしさを回復するというファンタジーのもうひとつの効用は、 たとえば<指輪物語>のような、男性の手になる作品のほうに、軍配があがるのではないでしょうか。

ほんとうに、とてもふしぎなのですけれど、女性の描くファンタジー作品は、どこか妙に説教くさいところがあるような気がするのです。
梨木香歩『裏庭』を読んだときにも感じたことなのですが。
<ゲド戦記>も『裏庭』も、物語としてはとても面白くひきまれるのですが、 ファンタジーとしての、あの、とほうもない異世界の広がり、そのなかで想像の翼をはばたかせる楽しさが、 あまり感じられないのは、女性の想像力の限界なのかなあと、ときおり考え込んでしまうことがあります。

ですが、ファンタジーの概念についての考察はともかく、<ゲド戦記>は、一読どころか何度も読む価値のある、すばらしい物語だとも思うのです。

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「不思議の国のアリス 新装版」

ルイス・キャロル 著/アーサー・ラッカム 絵/高橋康也・高橋 迪 訳(新書館)
2006/02/13

この作品も、あまりに有名で、断片的なエピソードだけを聞きかじって、実はきちんと手にとってこなかったもののひとつ。
改めて通読してみると、こんなお話だったのかと、驚きもありました。
まさに、ナンセンスの世界。

はっきり言ってこの作品は、英語を理解した上で原文で読まないことには、言葉あそびやしゃれの醍醐味が味わえない!と思いました。
くすりと、にやりと、笑えるはずの場面でも、なんのことだか分からなくて、笑えない…ということが多かったです。
訳はとても工夫してありますし、詳しい訳注が付されてもいるのですが、いちいち巻末の訳注を参照しながらでは、せっかくのしゃれも、ピンとこずじまい。
何というか、この「不思議の国のアリス」という作品は、対訳にでもなっていたほうが、理解しやすいのかもしれませんね。
読解のためには、結局、ある程度の英語力が要求されるわけですが。(つまりわたしには読解できない、ということ^^;)

この作品の物語としての魅力は、やはりナンセンスの面白さ、なのだろうと思います。
「「常識」の枠組がゆさぶられ、はずされるときの、とほうもない解放感」と訳者あとがきにもあるとおり、 読んでいて、「常識」って何なのだろうと、考えさせられることが度々でした。
「第5章 青虫の忠告」での、アリスと青虫とのやりとりなど、はっとさせられます。
「人に聞くまえに、まず、自分がだれかいうべきだと思うわ」
「なぜだ?」青虫は間髪をいれずに聞きかえしました。
これまた答えにくい質問でした。どうしてもうまい理由が考えつかないのです。
わたしもアリスと同じく、青虫の問いかけに対するうまい説明を見つけることができませんでした。
自分が名乗らずにいることは失礼だ、とも思えましたが、そもそも、それがなぜ失礼にあたるのでしょう? 失礼、とはいったい何なのでしょう?
ああもう、頭がこんがらかってしまいます。
常識にこりかたまった大人であるはずのわたしも、読んでいるうちに、いつのまにか、アリスと一緒に不思議の国に迷い込んでしまっていたようです。

「不思議の国のアリス」の邦訳版は数あれど、 この新書館の『不思議の国のアリス 新装版』の魅力は、何といってもアーサー・ラッカムの挿絵につきます。
テニエルの挿絵があまりに有名で、物語としっくり調和していたために、ラッカムの挿絵本が発売された当時、本国イギリスでは非難の声があがったのだそうです。
でも、わたしはこの本を読んでみて、ラッカムのアリスが大好きになりました。
ラッカムは、ドリス・トーミットという少女をモデルに、この愛らしいアリスを描いたのだとか。
作者ルイス・キャロルが愛し、「不思議の国のアリス」のモデルとなったリデル家の次女アリスは、 きっとラッカムの描いたアリスのように、可愛らしい女の子だったに違いありません。

ラッカムの叙情的で美しい挿絵は、読者を「不思議の国」にやさしく誘い、あたたかく包み込んでくれます。

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→本の中で生きつづける永遠の少女「アリスについて」はこちら

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「回想のシャーロック・ホームズ」

コナン・ドイル 著/阿部知二 訳(創元推理文庫)
2006/04/02

まさにミステリーの古典。やっぱりホームズもの、とりわけ短編は、良いなあと思います。
今頃こんなことを言っているというのが、本好きとしての無知を露呈していますが(^^;
ドイルのホームズものって、ミステリーの古典ではあるけれども、本格的な謎解き小説ではないのですね。
ホームズが一人で勝手にどんどん推理をすすめてしまって、読者にはなんの手がかりも提供されず、したがって犯人当てができないのです。 物語の最後になって、やっとホームズさんが偉そうにトリックを解説してくれるという。
A・A・ミルンが、『赤い館の秘密』(創元推理文庫)のはしがきで、ここらへんのミステリーの手法に関して、 いろいろと自分の好みやうんちくを語っていたのを、なるほどなあと思い出します。
ミルンは、もちろんホームズものを愛読しながらも、やはり手がかりはフェアに読者にも提供してほしい、それが自分の好みのミステリーだ、 というようなことを書いていたのですが。

わたしは、実は純粋な謎解きを目的にミステリーを読んでいるわけではなく、 まさに「癒し」を求めているので、ホームズものは、ずばり”癒し系ミステリー”として、かなり好みの作品です。
ドイルのホームズものの舞台は、19世紀末のロンドン。
ダンセイニ卿の生きた時代とも重なる、興味のつきない魔都ロンドンでの、名探偵と人の好い相棒との大活躍は、 ドイルの読みやすくさっぱりとした筆致もあって、読んでいるとゆったりとした気持ちになれます。
ホームズもワトソンも英国紳士で、礼儀作法をわきまえているというか、品が良いというか、緊迫した場面でも、どこかいい意味で余裕がある感じで、とっても素敵。
事件の関係者には上流階級の人がやっぱり多いので、その生活ぶりが垣間見えるのも興味津々。
ミステリーとしては、ほんとうに今読んでも新鮮なみずみずしい面白さがあると思うのだけれども、 辻馬車やパイプや暖炉など、登場する小道具がすべて古き良き時代を思わせて、 読んでいると19世紀末のロンドンにタイムスリップできる感じなのです。

『回想のシャーロック・ホームズ』所収「ギリシャ語通訳」では、ホームズの実の兄マイクロフトが登場するのですが、 このマイクロフト氏が非常に風がわりな人物で、「ディオゲネス・クラブ」という、これまた風がわりなクラブに出入りしています。
このへん、「ディオゲネス・クラブ」の片隅に、ダンセイニ卿がいてもおかしくないよなあ、なんて思えました。
街のどこかで、ホームズやワトソンと、ダンセイニ卿やジョーキンズがすれ違っていたりして… なんて考えながら読むのも、とっても楽しいんですよね。
これは誰か別の人物やキャラクターに置き換えることも可能な、至福の読み方だと思うのですが(^^)

なお『回想のシャーロック・ホームズ』には、ミステリー史上あまりに有名な、あのホームズとモリアーティ教授が格闘して滝つぼに墜落、 生死不明になるという「最後の事件」が収録されていて、興味深かったです。
この一篇、よく読んでみると、厳密にはミステリーとは言えない作品だったのですね〜。

ミステリーの源流を知るという意味でも、とっても読み応えのある一冊でありました。(わたしが言うまでもないのだけれど)

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