■読書日記(2006年5月)


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2006年05月28日

ロード・ダンセイニ 著『最後の夢の物語』

2006年05月23日

ローズマリ・サトクリフ 著『アーサー王と円卓の騎士』

2006年05月17日

W.デ・ラ・メア 著『妖精詩集』

2006年05月14日

ジョージ・マクドナルド 著『リリス』

2006年05月05日

フィオナ・マクラウド 著『かなしき女王』

2006年05月03日

フィオナ・マクラウド 著『ケルト民話集』



「最後の夢の物語」

ロード・ダンセイニ 著/中野善夫 他 訳(河出文庫)
2006/05/28

この本は、Fifty-One Tales(1915年)の完全版、および本邦初紹介のThe Man Who Ate the Phoenix(1949年)の完訳、 さらに生前単行本未収録の2作品がおさめられています。

Fifty-One Tales、「五十一話集」は、稲垣足穂に絶大な影響を与えたといわれています。
日常と神話的要素が渾然一体となった、寓話ふうの掌篇がつみかさねられたこの作品集は、たしかに稲垣足穂の「一千一秒物語」を彷彿させます。
ただ「五十一話集」においては、文明への風刺のちりばめられているのが、読後つよく印象に残りました。 産業革命によって、牧歌的風景が失われ、それまでの価値観が根こそぎくつがえされていくのを、ダンセイニ卿がどれほど嘆いていたかが、よくわかります。
ちなみに、この『最後の夢の物語』では、アメリカ版にのみ収録されていた一篇を加え、五十二の話がおさめられており、ファンには嬉しい完全版となっています。

The Man Who Ate the Phoenix、「不死鳥を食べた男」は、本邦初紹介の短篇集。
そもそもダンセイニ卿の作風は、初期の創作神話群、中期の幻想物語群、後期の<ジョーキンズ・シリーズ>に代表される法螺話と、大きく三つにわけられます。
「不死鳥を食べた男」は、中期の幻想物語から後期の法螺話への、移行期・過渡期に書かれており、やはりファンにとっては非常に興味深い作品群となっています。

短篇集の表題である「不死鳥を食べた男」は、ファンならずとも面白く読める法螺話ふうのファンタジーで、初期・中期のダンセイニ作品がわかりにくいという読者にも、とっつきやすい作品ではないかなと思います。
地主の庭から逃げた金鶏を撃ち、それを食べた男パディ・オホーン。
金鶏など知らないパディとおっかさんは、その鳥を「不死鳥」と信じ込み、周囲の村人たちも巻き込んで、「不死鳥を食べた男」の伝説が広がっていきます。
「不死鳥」を食べてからというもの、不思議なものを見たり聞いたりするようになったパディ。
幽霊、レプラホーン、バンシー、ジャック・オ・ランタン、魔女、そして妖精の女王まで。
書き手である「わたし」(おそらくダンセイニ卿自身)が、パディや村人たちの語る、これら不思議なものたちにまつわる話を、聞き書きするという体裁になっています。
訳者あとがきに「次々と嘘か本当か判らない話が繰り返されて現実の境界が徐々に緩んでいく」と書かれているとおり、 噂話がだんだん村の伝説として語られるようになっていく様が、たいへん面白いです。
妖精を信じ、日常と非日常は隣り合わせであるという、ケルト的な世界観が根底にあるからこそ、成立する物語。
アイルランドにしろスコットランドにしろ、ケルトの人々は、キリスト教化されたとはいえ、異教的なもの、民族の伝承を忘れずに守りつづけているのだなあと、しみじみ感じました。

ちなみに「不死鳥を食べた男」には、レプラホーン、バンシー、ジャック・オ・ランタンなど、たくさん妖精が登場しますが、妖精たちについての前知識があれば、より楽しめること間違いなし。
わたしは、井村君江 著『妖精学入門』(講談社現代新書)を参照し、妖精の名前や特徴について、確認しながら読みました。
『妖精学入門』は、安価でハンディでありながら、カラー図版も多数まじえ、妖精について、妖精物語や妖精画についてもわかりやすく解説されていて、これもまたおすすめの一冊です。

河出文庫のダンセイニ幻想短篇集成、全4巻がついに完結したわけですが、すべて読了してみて、やっぱりダンセイニは面白いなあ、との思いを新たにしました。
中野善夫氏をはじめとする訳者の方々の新訳は、たいへん読みやすく、難解とされていたダンセイニ作品への間口を広くしてくれたと思います。
この集成が、ダンセイニ卿の作品を広く日本の読者に知らしめ、より多くの人に愛読されるようになることを、ダンセイニファンの一人として、切に願ってやみません。

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「アーサー王と円卓の騎士 サトクリフ・オリジナル」

ローズマリ・サトクリフ 著/山本史郎 訳(原書房)
2006/05/23

有名なアーサー王にまつわる数々の伝説を、トマス・マロリー『アーサー王の死』等をもとに、サトクリフが新たに語りなおした、現代の「アーサー王物語」。
若き日のマーリンの物語から始まり、アーサー王の誕生、少年アーサーが石にささった剣をひきぬき王の証をする話、アーサー王の戴冠式、 湖の精に聖剣エクスカリバーを授かる話、そしてキャメロットに集まった、きら星のごとき円卓の騎士たちの冒険譚…。
このファンタジーのセオリーの中に、アーサー王と王妃グウィネヴィア、サー・ランスロットの三角関係が徐々に展開していく様子が巧みに挿入され、 読者の興味をひきつけてやまない物語が出来上がっています。

このサトクリフ・オリジナルのアーサー王物語は、マロリー『アーサー王の死』や、中世の長編詩など、さまざまな素材を参考に書かれたものだということですが、 ファンタジーのセオリーを熟知した作者のみごとな筆さばきに、導入から最後まで一気に読まされてしまいました。
まずマーリンの予言にもとづくアーサー王誕生までの話が、きたるべき偉大な大王の御世への期待をふくらませ、読んでいてわくわくさせられました。
これはマロリー『アーサー王の死』にはないエピソードだということですが、この導入部があるかないかで、そのあとのドラマの盛り上がり方が違ってくるわけで、 サトクリフのツボを押さえた物語の構成力に唸らされました。
やっぱり、偉大な王の誕生には、予言や予兆がつきものです。マーリンはドルイドの技に精通していたということですが、 古代のドルイドたちが、高貴の人の誕生に際してさまざまな予言をしたことは、ケルトの神話にも語られているところです。

ケルトの神話に語られているといえば、「トリスタンとイズー」の物語。
巻末の「作者の言葉」にもあるとおり、「トリスタンとイズー」はゴットフリー・フォン・シュトラスブルグの物語をもとにしたとのことですが、 そもそもこの物語のもとになったのは、ケルト神話の『デードラとウスナの息子たち』『ディアマドとグラニア』なのです。
『デードラとウスナの息子たち』『ディアマドとグラニア』は、井村君江 著『ケルトの神話 女神と英雄と妖精と』(ちくま文庫)で、 「悲しみのディアドラ」「ディルムッドとグラーニャの恋」として、わかりやすく語られています。
ちなみに、フィオナ・マクラウド 著/松村みね子 訳『かなしき女王 ケルト幻想作品集』(ちくま文庫)収録の戯曲「ウスナの家」は、 「悲しみのディアドラ」で語られた悲劇的な恋の話の、後日譚としても読むことができます。
「トリスタンとイズー」「悲しみのディアドラ」「ウスナの家」をあわせ読むと、よりいっそう悲劇的な恋のドラマと、ケルトの哀感とが感じられ、非常に興味深いです。

「トリスタンとイズー」における悲恋、禁じられた三角関係のテーマが、アーサー王と王妃グウィネヴィア、ランスロットの三角関係と呼応して、 サトクリフのアーサー王物語全体を貫くテーマになっているのも、見逃せません。
この運命づけられた三角関係が、抜き差しならない展開をみせていく様が、実にリアルな人間ドラマとして描かれていて、サトクリフの筆さばきに圧倒されます。
王妃の私室の片隅。窓から差し込む薄暮のかすかな光と、楽師の奏でる竪琴の音。刺繍に目を落としたままのグウィネヴィアに、ランスロットが、他の女に子を授けることになってしまった事の次第を語ります。
グウィネヴィアが刺繍しているのは、夫アーサーの盾の覆いとなる、焔のように真っ赤な竜。
ランスロットが、決定的な一言を口にした瞬間、グウィネヴィアの刺繍の糸がぷつんと音をたてて切れ、二人の眼差しが重なりあい…。
絵のような、音楽のような、美しいワンシーン。
静かな、けれどはりつめた緊張感に、読んでいて息をひそめてしまいました。
そして、そんな二人の関係に気づきながらも、あえて黙しているアーサーの切なさ。
ランスロットの子を産みながら、彼の愛を得られぬことを苦にして死んだエレイン。 彼女の亡骸を前にして、彼女を愛せなかったことを嘆くランスロットに、アーサーがかけた言葉。
「愛は、来るも来ないもみずから選ぶものだ。軛にはめてむりに牽いてくることなど、できるものではない」
偉大な王のはずなのに、愛は決して思い通りにならない…なんて切ないのでしょう。
このように、サトクリフ作品は、登場人物への感情移入を容易にすることによって、物語の品格を損ねることなく、古典を現代に生き生きと蘇らせており、とても読みやすく感じました。

あまりにも有名なのに、一度もちゃんと読んだことがなかったアーサー王物語。
いまさらながら読んでみて、やっぱり面白かったです。
サトクリフ・オリジナルのアーサー王物語は三部作になっているので、続編も、もちろん読んでみようと思っています。

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「妖精詩集」

W.デ・ラ・メア 著/荒俣 宏 訳(ちくま文庫)
2006/05/17

ちくま文庫復刊フェアで、ロード・ダンセイニ『妖精族のむすめ』などとともに、めでたく復刊したこの本。
「幼な心の詩人」と評される、英国の詩人、幻想小説家ウォルター・デ・ラ・メアの詩に、ドロシー・P・ラスロップの愛らしい絵が添えられた、文庫としては贅沢な一冊です。
訳者の荒俣氏は幻想小説のみならず、挿絵本の紹介者としても、つとに名高い方ですので、ロード・ダンセイニ『妖精族のむすめ』にしろ、 ジョージ・マクドナルド『リリス』にしろ、挿絵も大きな魅力のひとつとなっています。

この『妖精詩集』の原本は、
Down-Adown-Derry (Constable Co.Ltd.,London,1922)。
デ・ラ・メアの名前は知っていたのですが、実際に読んだことはなく、復刊フェアをきっかけに手にとってみて、とても良かったです。
デ・ラ・メアの作風は、「夢の中に暮らす幼年期の感性」と、あとがきで荒俣氏も述べているとおり、じつに夢幻味あふれるもの。
妖精を題材にした詩の数々は、昔話のような味わいもあり、読んでいるうちに、夢と現の境界が曖昧になる感覚が味わえるのが魅力です。
耳もとに、月光のようにあえかな、妖精たちの笑い声が聞こえたかと思うと、そのまま、あちら側の世界へ連れ去されてしまいそうな。そんな不思議な浮遊感。
こんなふうに、ほんものの夢を見続けることができたデ・ラ・メアだからこそ、「幼な心の詩人」と呼ばれたのでしょうね。
これも訳者あとがきにあったのですが、「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」という、江戸川乱歩の座右の銘が、 デ・ラ・メアの名言だったなんて、知りませんでした。
大好きな言葉だったのですが、これはデ・ラ・メアのオリジナルだったのですね。

「幼な心」とは言っても、この本に登場する妖精たちは、シシリー・メアリー・バーカーの描いたフラワー・フェアリー(→Click!)のような、陽のひかりを感じさせる、やさしくて愛らしいだけの隣人ではありません。
月夜や黄昏、闇の帳の向こう側に住む、妖しく魔的な、だからこそ魅力的な存在として描かれており、英国圏での妖精信仰について知る上でも、たいへん興味深いです。

月光の下、妖精の輪(フェアリー・リング)に誘われ、踏み迷ってみたいなら、ぜひ一度お手にとってみてください。
水の精の歌
   (『三匹の高貴な猿』より)

泡よ、泡よ、
 泳いで見にこい
ああ、わたしは
 こんなにきれいよ

魚よ、魚よ、
 ひれをつけた おしゃれさん
おまえたちの金の色も
 わたしと比べものになるかしら?

でも、それならなぜ
 賢いティシュナーは、
こんなにきれいなのに、こんなに悲しい
 わたしをおつくりになったの?

ひとりぼっちのわたしには
 歌うたうためだけの
戯れ歌ひとつ
 つくるよりほかに何もない。

W.デ・ラ・メア 著/荒俣宏 訳『妖精詩集』(ちくま文庫)より

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「リリス」

ジョージ・マクドナルド 著/荒俣 宏 訳(ちくま文庫)
2006/05/14

先祖代々ひきついできた、古いふるい屋敷の中の、これまた古いふるい図書室。 印刷技術の発明されるまえから集められてきた、古今の書物がたくさん書架におさまったこの図書室で、 主人公のヴェイン青年は、ふしぎな司書レーヴン氏に出会います。
司書に導かれ、鏡のむこうの世界に足を踏み入れると、そこは…。
蝶に変身するみみず、小鳥に変わる蛇、蛍のように光を放ちながら飛びまわる本。緑の蔦のからまる広間で踊る骸骨の群れ、広大な地下室の寝台で目醒めのときを待つ死人たち。 そして、こちらの世界とあちらの世界の間に、楔のように挟まった、一冊の本。
めくるめく奇妙な世界で、ヴェイン青年が出会うのは、時には雌豹に、時には絶世の美女に変身する女性、リリス。
はたしてリリスとは何者なのか、レーヴン氏の正体は?
そして鏡のむこうの別世界で、ヴェイン青年が最後に見たものは――

幻想文学の巨匠ジョージ・マクドナルドの、最高傑作といわれる珠玉のファンタジー。
難解との書評も多く見かけたのですが、心配することはありませんでした。ストーリーテリングのうまさに、先へ先へと、自然に読み進んでしまうのです。
ヴェイン青年とレーヴン氏の、禅問答のようなやりとりなどは理解しにくいのですが、この物語を読むコツは、理解しようと思わないこと。
訳者の荒俣氏も、「あとがき」でこう述べています。
「この作品を、めくるめく色彩に満たされた音楽として味わうことが、まず重要だと思います」と。
わたしたち読者は、尽きせぬイメージの奔流に、ただただ眩惑されていれば良いのです。
ほら、あなたがいま無造作に本棚につっこんだ、一冊の本。
こちらから見えない半分は、あちらの世界の本棚に、突き出ているかもしれませんよ…(^^)

ネタバレになるようなことは書けませんが、この作品のテーマはといえば、<自分探し>と<死>ということになるでしょうか。
踊る骸骨、地下室で眠る死人の群れ。この物語には死のにおいが、濃厚にたちこめています。
美しいイメージに溢れたアンデルセン童話がどれも、死のにおいに満ちていることが思い出されますが、 もしや死の秘密は、夢の秘密でもあるのでしょうか?
物語の始まりが図書室であることや、主人公ヴェイン青年の導き手レーヴン氏が司書であることは、図書館で働くわたしにとって、 たいへん興味深く感じられましたが、レーヴン氏の言葉には、いろいろ考えさせられることも多かったです。
たとえば、下記のヴェイン青年とレーヴン氏のやりとり。
「でも、あなたはさっき、ここでは墓守だとおっしゃったばかりじゃありませんか」
「そうさ、どっちも同じような仕事だからな。きみ自身がほんとうの墓守でないのなら、きみにとって本は死体にすぎないよ。 図書室なんて地下墓地(カタコウム)と同じだ」
そんなふうに言われると、図書館にも死のにおいがたちこめてくるようです。司書と墓守。そんな白昼夢も、また楽しいかもしれません。

さてこの作品、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』や、C・S・ルイス『ナルニア国ものがたり』と、似ている部分がたくさんあることでも驚かされました。
それもそのはず、ルイス・キャロルもC・S・ルイスも、ジョージ・マクドナルドにつよく影響を受けているのです。
巻末に付された矢川澄子氏の解説によると、『不思議の国のアリス』の原話にあたる地底冒険の初稿を、活字にするようキャロルをはげましたのは、 マクドナルド家の子どもたちだったのだとか。
また、C・S・ルイスは、マクドナルドのもうひとつの大人向け長編ファンタジー『ファンタステス』の読書体験について、「想像力の回心」とまで述べているのだそうです。
屋根裏部屋の鏡をくぐりぬけて別世界にいたるだとか、この世界の常識が通用しない禅問答のようなやりとりをする場面、 不思議な生き物、不思議な街、キリスト教的モチーフの数々。
どの場面をとっても、この作品が、『不思議の国のアリス』や『ナルニア国ものがたり』に、色濃く影響を与えたことがわかります。
じつは、もうひとつ、『リリス』にとてもよく似ているなと思った作品があります。梨木香歩『裏庭』です。
『リリス』と『裏庭』は、<自分探し>と<死>というテーマも同じで、ほんとうによく似ているなあと、興味深く感じました。

ジョージ・マクドナルドは、後世の作家たちに多くの影響を与えた、ファンタジーの偉大な先達。
『リリス』は、そんなマクドナルドが最晩年になって、<自分>とは何か、そして<死>とは? という人間の永遠の問いに、ひとつの答えを提示しようとした物語です。
1895年という、遠い昔に書かれた物語だとは、ちょっと信じられないくらい、古くて新しい”夢の文学(ドリーム・リテラチャー)”なのです。

追記:この本には、原書にはなかった挿絵が付されており、この作品のために描かれたものではないのですが、 エリナー・ヴェレ・ボイルの木版画も味わうことができます。挿絵本好きな方にも、見逃せない一冊ではないでしょうか。

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「かなしき女王 ケルト幻想作品集」

フィオナ・マクラウド 著/松村みね子 訳(ちくま文庫)
2006/05/05

まず、冒頭に収録された短篇「海豹」を読み、キリスト教的イメージの濃厚なことに意表をつかれ、大正期の歌人、松村みね子(本名:片山廣子)の美しい訳文に感動しました。
聖者コラムが、まったき平安を求めて、おのが罪を悔い改める、この短い話。
コラムは月夜の浜辺で、人間の母と海豹の父とのあいだに生まれた子どもに出会うのですが、 この子の歌う姿の、妖しく昏い美しさは、忘れがたいものがあります。
人間と海豹の罪の子、たましいを持たぬ子の、哀しいさびしい歌に、胸をつかれます。
この歌など、歌人・松村みね子の、言葉に対する鋭い感受性あってこその名訳だと思います。

「女王スカァアの笑い」「かなしき女王」の2作品は、ケルト神話に材をとった、愛と血と狂気に満ちた作品。
本のタイトルにもなっている”かなしき女王”スカァアの、美しき英雄クウフリンへの狂わしい愛。 その愛がかなわぬことを知り、残酷に人を切って捨てては哄笑する女王スカァアの、おそろしさ、かなしさ。そのイメージの鮮烈なこと。
また、スカァアにそれほどまで思われる、英雄クウフリンの美しさも、つよく胸に灼きつけられます。
フィオナ・マクラウドの描くクウフリンは、ケルト神話の代表的な英雄ク・ホリンとは、少々趣を異にしているように感じられます。
神話より、いっそう美しく、昏く、孤独なイメージなのです。
フィオナ・マクラウドにとっての、このクウフリンのイメージは、たいへん興味深いものがあります。

「最後の晩餐」「魚と蠅の祝日」「漁師」などは、キリスト教的モチーフに彩られた作品。
これらの作品では、キリストがたびたび登場するのですが、このキリストの雰囲気やたたずまい、 あらわれ方、語る言葉などが非常にケルト的で、なんとも不思議な味わいがあります。
「浅瀬に洗う女」という作品では、死の予言をする妖精バンシーが、「わが名はマグダラのマリヤ」と歌っていて、 ほんとうにケルト的イメージとキリスト教的イメージとが渾然一体となっています。
アイルランドをはじめとするケルト圏へのキリスト教の布教は、土着信仰とキリスト教とのゆるやかな融合のかたちをとったと言いますが、 上記のような作品から、その布教の成果の一端がうかがえるでしょう。

「精」においては、ケルト圏の土着信仰と、キリスト教との相克があったこともうかがえます。
キリスト教の聖者コラムに仕える青年カアル。信仰と女性への愛との間で苦悩し、愛を選んだ彼は、罰として樫の洞の中に、生きながら閉じ込められてしまいます。
しかし彼は肉体の死ののち、たましいの自由を得、精の人たちの存在を知ることに。カアルは女の精デオンと愛し合うようになり、精としての生命を得ます。
数年後、カアルに罰を与えた聖者モリイシャは、精の人となったカアルと対面。キリスト教の教えにそぐわぬカアルの姿を、はじめは呪ったモリイシャでしたが、 やがて悟りを得、妖精や動物たちを祝福し、平安のうちに死を迎えるのです。
土着信仰ドルイドとキリスト教との相克の問題に、フィオナ・マクラウド独特の神秘思想がひとつの答えを提示する、印象深い物語。
白い花からとった、月の光る露を瞼に塗られたカアルが、樹の内と外とを自由に出入りする「美しいうす青い生命」、精の人たちを目の当たりにする場面は、圧巻です。

ちなみに、「琴」と題された一篇は、『ケルト民話集』収録の「クレヴィンの竪琴」と同じ作品です。
最後に収録された戯曲「ウスナの家」は、「琴」の続編にあたり、あわせ読むと、ケルトの哀感がいっそう際立ちます。
また巻末には、井村君江氏による解題が付されており、松村みね子女史の訳文を味わう上で、とても参考になります。

スコティッシュ・ケルトのもの哀しさを、歌人・松村みね子のみずみずしい日本語で読むことのできるこの一冊。
『ケルト民話集』とあわせ読み、フィオナ・マクラウド作品の真髄を感じたいものです。
「この少女はダフウト――不思議――と名づけて下さい、ほんとうにこの子の美は不思議となるでしょう。 この子は水泡のように白い小さな人間の子ですが、その血の中に海の血がながれています、この子の眼は地に落ちた二つの星です。 この子の声は海の不思議な声となり、この子の眼は海のなかの不思議な光となりましょう。この子はやがては私のための小さい篝火ともなりましょう、 この子が愛を以て殺す無数の人たちの為には死の星ともなり、あなたとあなたの家あなたの民あなたの国のための災禍ともなりましょう、 この子を、不思議、ダフウトと名づけて下さい、海魔のうつくしい歌の声のダフウト、目しいた愛のダフウト、笑いのダフウト、死のダフウトと」

フィオナ・マクラウド 著/松村みね子 訳
『かなしき女王 ケルト幻想作品集』(ちくま文庫)所収
「髪あかきダフウト」より

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「ケルト民話集」

フィオナ・マクラウド 著/荒俣 宏 訳(ちくま文庫)
2006/05/03

大学時代、ロード・ダンセイニの諸作品に感銘を受けたことから、ダンセイニ周辺のケルト文学にも興味をひかれ、購入した本。
一読したものの、あまりの昏さに押し潰され、物語の魅力がわからず、ずっと本棚の片隅に埋もれていたのです。
先月のこと、アリステア・マクラウド 著『灰色の輝ける贈り物』を読み、 スコティッシュ・ケルトの哀しみをつよく感じたことから、彼ら民族のルーツを知りたく思い、『ケルト民話集』を再読しようと思い立ちました。

前置きが長くなりましたが、そのような経緯で、フィオナ・マクラウドを改めて読み返した結果、ようやく、この昏い夢を紡ぐ作家の真価が、 わかったような気がします。

『ケルト民話集』におさめられている短篇は、いずれも、ほんとうに昏く、哀しく、死の気配に満ちています。
「クレヴィンの竪琴」は、なかでも鮮やかなイメージを残す一篇。
英雄として誉れ高い美丈夫コルマク・コンリナス。 王に背き、たぐいまれな美女エイリイと愛し合った咎で、コルマクは追放され、エイリイは琴弾きクレヴィンに嫁がされます。
エイリイはコルマクへの思いを決して捨てず、クレヴィンはそんなエイリイを許そうとはしません。
やがてエイリイはコルマクの子を産み落としますが、クレヴィンの竪琴は、この赤子の魂を妖精のもとへ誘い、死に至らしめます。
結末、コルマクとエイリイの密通を知ったクレヴィンは、妖精に手ほどきを受けた魔力もつ琴の音を奏で、 妻もその愛人も、母親も召使も家畜も、邸ごと焼き亡ぼしてしまうのです。

エイリイは、その美しさから、多くの男性を虜にし、惑わし、それが自らの死を招きました。
英雄コルマク・コンリナスの最期は、華々しい功(いさおし)に彩られることもなく、無残なものでした。
そして琴弾きクレヴィンは、自分の持っていたものすべてを、自らの手で焼き亡ぼし、妻の愛を得ることは永久(とこしえ)になく、だた死のみを望んで、 コルマク・コンリナスの血族のもとへと旅立つのです。

他の作品も同様に、登場人物たちはまず間違いなく、狂気と愛に憑かれるようにして、死へと赴いてゆきます。
こんなに、何の救いもない物語群が、長く読み継がれてきた(※注1)のは一体なぜなのでしょう。

フィオナ・マクラウドの作品の魅力として、まず、ケルト的な美しさが挙げられると思います。
クレヴィンが、「緑の琴弾き」と呼ばれる妖精とともに竪琴を爪弾き、生まれたばかりのエイリイの子を死へと誘う場面は、おそろしくも美しく、 妖しい誘惑者としての妖精のイメージが、鮮やかに読者の胸に灼きつけられます。
このようにケルトの伝承が息づく、幻想的なイメージは、他の作品のあちこちに見られます。

そして、わたしが感じたフィオナ・マクラウド作品の、何よりの魅力。
それは、彼(※注2)が執拗に謳いあげた「ケルト的な哀しみ」――さらに言うなら、<ケルト民族の誇り>ではないかと思います。
フィオナ・マクラウドは、ケルティック・ルネサンスと呼ばれる、民族の自主独立運動に参加した作家の一人。 彼の思いは、『ケルト民話集』の最後に収録された「イオナより」において、ジョージ・メレディスへのメッセージのかたちで、詳しく語られています。
「死滅を宣言された去りゆく民族」ケルト人の哀しみと誇りとを、意外なほど熱く語ったこの文章は、 『灰色の輝ける贈り物』で描かれていた、現代を生きるスコットランド移民の人々の、ひたむきに生きる姿を思い出させ、 読んでいて胸を打たれました。

死と哀しみ。民族の、人間の宿命を、思い知りながら、それでも絶望することのない力づよさと、誇り高さ。
ケルトは滅びても、民族の魂は滅びないという、つよいメッセージこそ、フィオナ・マクラウドの作品の真価ではないかと思います。

「イオナより」の結びの言葉は、涙なしには読み終えることができませんでした。
しずかな言葉に込められた――かかげられた松明の炎のように照り映える、ケルト民族の、ゆるぎない誇り。
しかし、あなたがいる。そして、あなたほど聡明ではないが熱意においてはゆめゆめ劣らない人々もいるから、 わたしたちは絶望する必要がない。「英国人はヒースの原を踏みにじれるかもしれないが」と、アーギルの羊飼いたちはいう、
「しかしかれらは、風までを踏みつけにすることはできない」と。

フィオナ・マクラウド 著/荒俣 宏 訳『ケルト民話集』(ちくま文庫)所収
「イオナより(ゲール族について)Prologue――From Iona」より
(※ ここでの「あなた」とは、ジョージ・メレディスのこと)

(※注1 『ケルト民話集』所収の作品の大部分は、短篇集”The Sin-Eater”(1895年)に収録されていたものです)

(※注2 フィオナ・マクラウドという女性名は筆名。本名はウィリアム・シャープ)

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