■読書日記(2006年4月)


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2006年04月30日

トーベ・ヤンソン 著『人形の家』

2006年04月18日

アリステア・マクラウド 著『灰色の輝ける贈り物』

2006年04月05日

トーベ・ヤンソン 著『クララからの手紙』

2006年04月02日

カイ・ニールセン 絵『空飛ぶトランク アンデルセン童話集(3)』

2006年04月01日

ウィルキー・コリンズ 著『月長石』



「人形の家 トーベ・ヤンソン・コレクション5」

トーベ・ヤンソン 著/冨原眞弓 訳(筑摩書房)
2006/04/30

短篇集ですが、『クララからの手紙』とひきくらべて、重く濃い、読みごたえのある作品が多かったように思います。

表題作「人形の家」は、昔気質の室内装飾師であるアレクサンデルが、仕事を引退した後、人形の家(ドールハウス)作りに熱中する話。
その没頭ぶりは常軌を逸し、同居人であり友人であるエリクとの関係に歪みが生じてきます。
そこに、ドールハウス作りに電気工として手を貸す、ボーイという男が現れ、二人の関係はますます歪んでゆくのですが…。

トーベ・ヤンソン・コレクションの広告では、この表題作は、 「植物のように有機的に生長してゆく家の模型を作るうちにその虜になってしまい、現実から少しずつ忘れられてゆく男について」の話となっています。
ですが、わたしとしてはこの短篇は、アレクサンデルとエリクの関係、二人の友情と愛情の微妙なゆらぎを描写した作品だと思いました。
ドールハウス作りに熱中するアレクサンデルを、取り残された者として眺めるエリクの気持ちが切ない一篇。
ちなみに、わたしは、アレクサンデルとエリクは同性愛関係だと確信しながら、この作品を読んだのですが…。

さて、「人形の家」はじめ、重苦しい空気を感じさせる作品も多かった中で、わたしが好きだったのは、 「時間の感覚」「自然の中の芸術」などの、どちらかといえば肩の力の抜けた作品たち。
とりわけ「自然の中の芸術」は、『トーベ・ヤンソン短篇集』を読んだときも、好きだなあと思った一篇です。
<自然の中の芸術>と銘うたれ、夏の間だけ開かれている展覧会。 湖のほとり、白樺の木立や睡蓮の沼のあいだに、さまざまな芸術作品が展示されているこの盛大な展覧会を、警備員ラネサンの視点から描き出しています。

警備員でなければ見ることのない、展覧会が終わったあとの、夜の静けさの中に屹立する彫刻についての描写など、情景を絵として想像できる美しさです。
また、夜の展覧会場に居残って、バーベキューをやろうとしていた一組の夫婦に、警備員ラネサンが、前衛芸術の概念(イデー)を語るくだり。

紐を巻きつけた包みにしか見えない、包装芸術作品について、夫婦ものの女性のほうが、こう言います。
「そんな包みを芸術というのだったら、だれでも家で作って壁に掛ければできあがりじゃないですか」
しかしラネサンは、こう反論します。
「そうじゃないと思いますよ。それじゃ秘密というものがないですからね」

ここでラネサンは包装芸術作品の概念(イデー)を理解し、幸福感に満たされるのですが、このラネサンの科白で、 読者であるわたしも、ヤンソンの小説の概念(イデー)に触れたような気がしたのです。
無駄な叙述をきっぱりと廃するスタイル。読者はときに何の説明も与えられず、宙に放り出されたような気分になってしまう、ヤンソンの小説。
それでも彼女の小説をもっと読みたいと思うのは、そこに何か「秘密」があり、その「秘密」にひきよせられるからなのだと。

まあ、小難しい(?)芸術作品の概念(イデー)など考えずとも、ヤンソンの小説の魅力が減ずることはありません。
「ホワイト・レディ」「主役」「花の子ども」などでは、書き方によってはエグい(あえてこんな表現をするのですが)女の情念を、ヤンソンはあっさり、淡々と描き出してみせます。 情感たっぷりと描かないことによって、いっそう、女性であること、老い、ひいては生きることの、淋しさや哀しみが伝わってきます。
とにかく、淡々とした筆致なのに、女の情念のエグみがこれでもかと綴られていて、トーベ・ヤンソンの人の悪さに、にやりとさせられます。
浮世ばなれした芸術家かと思いきや、その眼差しは透徹していて、現実の輪郭が、くっきりと鮮明に見えているんですよね。
見えすぎるから、つまり感受性が強すぎるからこそ、彼女は孤独を好んだのかな、などとも考えてしまいました。

いずれにもせよ、ヤンソンの文章を読んでいると、わたしはとても落ち着くのです。
万人受けする小説ではない、と、やはり読むだびに思うのですが(^^;

→トーベ・ヤンソンの小説の紹介はこちら

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「灰色の輝ける贈り物」

アリステア・マクラウド 著/中野恵津子 訳(新潮社)
2006/04/18

カナダ、ケープ・ブレトン島。
『赤毛のアン』で有名なプリンス・エドワード島を西に望む島、と説明する以外に、日本人にはなじみのない場所が、この本の舞台です。
ケープ・ブレトン島には、スコットランド高地からの移民が多く住み、彼らは漁師や坑夫を生業として、日々を送っています。
けれども時は移り、若者たちは、脈々と受け継いできた血も伝統も捨て去り、都会へと出てゆこうとするのです。
この本は、美しく苛酷な自然と対峙して生きる、ケープ・ブレトン島の人々の、人生の断片を鮮やかに切りとった短篇集です。

はっきり言うと、わたしの好みの小説というわけではありませんでした。
同じく新潮クレストブックスのジークフリート・レンツ『アルネの遺品』のような、静かな美しさを期待して手にとった本でしたが、 このアリステア・マクラウドの短篇集は、手触りがまったく違っていました。
荒々しく、生々しく、あまりに苛酷な人生の断片を、抑制のきいた筆致で物語った、地味な短篇ばかり。
けれども読み始めると、静かだけれども奥底に、魂の熱を感じさせる語り口から目をそらせずに、物語の最後まで、どうしても連れていかれてしまうのでした。

心に否応なく刻みつけられる言葉の数々。
『船』という一篇。長年漁師を続けてきた父が、実は「肉体的にも精神的にも漁師には向いていないのかもしれない」と、ある日突然気づいてしまった青年。
彼の、「自分本位の夢や好きなことを一生追いつづける人生より、ほんとうはしたくないことをして過ごす人生のほうが、はるかに勇敢だと思った」という言葉。

『ランキンズ岬への道』。人里はなれた岬の突端に住む、年老いた祖母を、ある秘密を抱え一人たずねる青年。彼に与えられた運命と、祖母が折あるごとに言った言葉。
「誰も人生は楽なもんだなんて言ってやしないさ。人生というのは、ただ生きていかなきゃならないものだというだけのことよ」

『夏の終わり』の語り手は、立坑を掘る開坑チームのリーダー。
坑夫として世界中をめぐり、そうして得たお金で養い育てた家族と、共有した時間はしかしほとんどなく、 いくどめかの旅立ちの時を迎えても、子どもに、妻に、言うべき言葉の見つからない男の、胸中の涙。
「私には、若い者の言うように、「ありのままにしゃべる」ことができなかった。これからもできそうもない」

こうして抜き出してみれば、ありきたりの言葉かもしれません。でも最初から最後まで読むと、胸につよく迫ってくるのです。
読ませる短篇は、テクニックのある作家にしか書けません。
けれどもこの短篇群に読者がひかれるのは、文章や構成のうまさだけでなく、静けさの奥の熱と悲しみに、魂をゆさぶられるからではないかと思います。
『帰郷』と、『失われた血の塩の贈り物』の二篇は、ほんとうに美しい短篇でした。 遠くはなれてしまった故郷への思い、過ぎ去って二度と戻らない日々、癒されえぬ喪失感。
この地表に、不恰好に這いつくばって生きるしかない人間の、なんと美しいことでしょう。

最後の短篇『夏の終わり』の、ほんとうにいちばん最後におさめられた、十五世紀の詩。
ここには引用しませんが、最後まで読んで、この詩にたどり着いたとき、ほんとうに魂のふるえる思いがしました。
ケープ・ブレトン島に生きる、スコットランド・ケルトの人々の、胸に秘めた誇りに、涙を抑えることができませんでした。

『灰色の輝ける贈り物』、この短篇集の底には、スコットランド・ケルトの、昏さと悲しみとがひそやかに流れているような気がします。
「ウェールズのケルトは余裕がある、アイルランドのケルトも楽天的だ。しかしスコットランドのケルトだけが昏く悲しい」
これはフィオナ・マクラウド 著/荒俣宏 訳『ケルト民話集』(ちくま文庫)の中にでてくる、著者の言葉です。
学生時代に読んで、あまりの救いのなさに物語の魅力を理解できなかった、この『ケルト民話集』を、今こそ読み返してみたいと思います。

→「ふたりのマクラウド〜スコティッシュ・ケルトの誇り〜」はこちら
→「新潮クレスト・ブックスの魅力」はこちら

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「クララからの手紙 トーベ・ヤンソン・コレクション3」

トーベ・ヤンソン 著/冨原眞弓 訳(筑摩書房)
2006/04/05

読みながら、わたしはどうしてこうも、トーベ・ヤンソンの小説が好きなのだろうと思ってしまいました。
たぶん、いやきっと、万人受けする小説ではないのですが…。

『クララからの手紙』の収録作品は、表題作「クララからの手紙」ほか、「汽車の旅」「夏について」「カリン、わが友」など13篇。
多彩な作品群で、一冊の短篇集としては、やや散漫な印象を与えるかもしれません。
『誠実な詐欺師』のような、息づまる緊張感はあまり感じられず、あっさりとして軽い印象の作品が多かったような気がしますが、 わたしは楽しんで読み終えました。どの表現をとっても、ヤンソンらしい風刺と諧謔と冷徹さと誠実さとが感じられて、にやりとしてしまうのです。

「夏について」「カリン、わが友」は、ヤンソンの自伝的小説『彫刻家の娘』の続編とも呼べるもの。
とりわけ「夏について」が、わたしは大好き。一人称の語りなのですが、主人公の生活についての説明などはひとつもなく、ただ「わたし」が何をしたのか、ひたすら淡々と綴られているだけ。
この「わたし」の感性がすばらしくオリジナルで芸術的で、『彫刻家の娘』で語られていたヤンソンの少女時代を彷彿させます。
不思議な余韻を残す小品です。

最後に収録された「リヴィエラへの旅」も、好きな作品。短篇集の最後を飾るにふさわしい、異国情緒たっぷりの美しい一篇。
だけどもちろん、ただリヴィエラというリゾート地を賛美し、旅の素晴らしさを謳いあげた作品だ、などとは思わないでください。
高級リゾート地リヴィエラに対する、ヤンソン一流のスパイスのきいた風刺を織り交ぜながら、母と娘、人間と犬、旅先でのさまざまな出会いなど、しずかに心あたたまる交流が描かれて、 この短篇集は締めくくられています。

どの作品も素晴らしいと感じるのですが、実は、書いていることの意味は、まったく正確には把握できていません。
そもそも作者は、読者の容易な作品理解を拒むかのように、何事も明らかにはされない結末を用意し、わたしたちは最後まで読んでも、 宙ぶらりんな気持ちのまま放り出されてしまいます。
しかし、この「拒絶される感じ」は、読者に媚を売るような読み物ばかりが売れ行きを伸ばす現代の出版業界において、際立った個性だと言わなければなりません。

また、登場人物たちはみな、どこか周囲と折り合わない、日常生活に違和感や不安感を抱いている人間ばかり。
たとえば「ルゥベルト」に登場するルゥベルト、「絵」に登場するヴィクトルの父、「事前警告について」に登場するフリーダなど。
けれども、彼らが抱いている違和感や不安感こそ、わたしにとっては何よりも尊いもののように思われるのです。

まるで当たり前のように誰もが思っている、この日常に、違和感を覚えている人、その違和感を見過ごすことができず、生きにくさを感じている人。 それはたとえば、エミリー・ディキンソンなどもそうだったのではないかな、と思えるのですが。
生きにくさ、というテーマでは、『アルネの遺品』にも共通するものがあるかもしれません。 若くして死を選んだ少年アルネは、まさに、「生きにくさを感じている人」に他ならなかったのですから。
だけどわたしは、この、「生きにくさを感じている人」というものに、畏敬の念を抱かずにはいられないのです。

生きにくさを感じながらも、人は生を、そして死を、誰しも等しく受け入れなければならないのですから。

→トーベ・ヤンソンの小説の紹介はこちら

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「空飛ぶトランク アンデルセン童話集B」

カイ・ニールセン 絵/荒俣 宏 訳(新書館)
2006/04/02

ほんとうに、アンデルセン童話のえもいわれぬ美しさには、読むほどに驚嘆させられてしまいます。
収録作品は、表題作「空飛ぶトランク」ほか「丈夫なすずの兵隊」「オーレ・ルゲイエ」など8篇。 どれも読後に深い印象を残す、珠玉の作品ばかりです。

「丈夫なすずの兵隊」は、ごく短い物語の中に、美しい幻想と、深い哀しみとが織りあわされた、アンデルセン童話のなかでも有名な一篇。
改めて読んでみると、子ども向けのおはなしのはずなのに、死のイメージのあまりに濃密なことに驚かされました。
この「死」のテーマについては、巻末で、訳者の荒俣氏が詳しく解説してくださっていますが、それによると、 子どもと老人は同じくらい「死」に近いのだそうです。
そしてメルヘンは、「「死」の秘密に通じている」、「無垢の幼な子と年老いた賢者でなければ理解できない」、「文学の最高の形式」なのだといいます。
わたしは「無垢の幼な子」でも、「年老いた賢者」でもないけれど、アンデルセン童話を、美しく、そして深い哀しみに満ちた作品だと感じています。

「ある母親の話」は、収録作品中、「死」のテーマがもっとも色濃く出ている一篇ではないでしょうか。
ある母親が、死神に連れ去られたわが子を追いかけて、神の庭にまでたどり着くというおはなし。
ごく短い地味な小品ですが、幻想の美しさの中に、「死」と「愛」とが深く掘り下げて語られていて、読み終えたあと感嘆のため息がもれました。
「オーレ・ルゲイエ」でも死神が登場しますが、アンデルセンの描く死神は、けっして恐ろしい存在ではないんですよね。
死神のイメージに、作者アンデルセンの死生観が垣間見えて、たいへん興味深いです。

「ニワトコかあさん」は、短いおはなしの中で、次々と美しい幻想が現れては消える、印象深い物語。
まるで新進気鋭の映像作家の、短編アニメーションでも見ているような、動的なイマジネーション。 ゆたかな幻想を自在に描き出す、アンデルセンの筆さばきに圧倒されました。
また、主人公である小さな男の子が体験するこれらの幻想は、荒唐無稽なものではなく、ひとりの人間の生涯、 おそらくはアンデルセン自身の理想の生涯を描き出しており、読者の胸に深い感慨を呼び起こします。

「ニワトコかあさん」などを読むと、アンデルセン童話を絵にすることは難しいな、けれども画家ならば、 一度は描いてみたい物語世界だろうなあと、思わずにはいられませんでした。
カイ・ニールセンは、アンデルセンの世界を表現するために、あえて描きこまない簡潔な画風をとりいれています。
描きこまないことによって生まれる紙面の余白に、 読者自身が、アンデルセン童話の美しさと哀しみとを垣間見ることができる、素晴らしい挿絵だと思いました。

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「月長石」

ウィルキー・コリンズ 著/中村能三 訳(創元推理文庫)
2006/04/01

インド寺院の秘宝「月長石」。さまざまな伝承に彩られた、黄色にかがやく巨大なダイヤモンドは、数奇な運命をたどり、イギリスのヴェリンダー家に持ち込まれます。
しかし月長石が届けられた日から、ヴェリンダー邸の周囲には、常に無気味なインド人の影がつきまとい、ついにある晩、宝石は忽然と、お屋敷から消失してしまうのです。
あの無気味なインド人が何らかの方法で盗んだのか、それとも、お屋敷の中の誰かが?
宝石を贈られたヴェリンダー家の令嬢レイチェル、宝石を運んできたレイチェルの従兄弟フランクリン・ブレーク、レイチェルに求愛したゴドフリー・エーブルホワイト。
他にもレイチェルの誕生日のパーティに招かれた大勢の客や、召使たちも巻き込んで、捜査は続けられるのですが、宝石の行方は杳として知れず…。
月長石は、はたして見つかるのでしょうか?

かなり分厚い文庫本。大長編ミステリーです。
最初は、読んでも読んでも終わらないんじゃないか、とも思えたのですが、すぐに物語の中にひきこまれ、あっという間に読み終えてしまいました。
レイチェルの伯父ジョン・ハーンカスルが、インドで月長石を手に入れたところから始まって、納得の結末まで、ヴェリンダー家の月長石消失事件に関わった人々が、 手紙や手記のかたちで、事件について順を追って語っていきます。

この長編は、論理的推理や犯人当てよりも、物語的興味がつよく読者をひきつけると思います。
まず月長石にまつわる伝承と、ジョン・ハーンカスルがインドで月長石を手に入れた経緯が語られるプロローグは、 神秘的で謎めいた宝石への興味をかきたてます。

次に舞台はイギリスへと移り、ヴェリンダー家の老執事ガブリエル・ベタレッジの長い長い手記によって、 月長石がヴェリンダー家に持ち込まれ、消失した事件の顛末が語られます。
このベタレッジのキャラクターが非常に魅力的で、手記を書くことになった、なんだかまだるっこしい説明から、 遅々として進まない物語を我慢して(?)読み進めると、いつのまにやらベタレッジ独特の語りの虜になっているのです。
ベタレッジ独特の語り、あえて言うならイギリスの裕福なお屋敷の老執事独特の語り、とでも申せましょうか。
事件の発端を語るベタレッジの手記は、長くゆっくりと進んでいきますが、 さて宝石はヴェリンダー家からいずこへ持ち去られたのか、ベタレッジの後に話をひきついで語る人々の手記は、結末に近づくにつれ、だんだん短く性急になっていきます。
ここらへんの筆さばきが秀逸。
それで、それで、次はどうなるの? と、事件の真相に近づくにつれ読者の気持ちが急いてくるのと、物語のスピードが、ぴったりと合っていて、 ストレスなく読む進めることができます。
ベタレッジの語りのゆるやかさと、物語後半の、切れ切れに短く語り手が変わる緊張感。語りの緩急が、読者をひきつけるのです。

そしてエピローグ、舞台はふたたびインドへと戻り、神秘的で幻想的な雰囲気に包まれ、長い物語が結ばれます。
インドの伝承に始まり、インドの神秘的な雰囲気とともに終わることで、月長石の物語は美しい額縁におさまった感があります。
物語の結構を完成させる、申し分のないエピローグだと思います。

ポオの「モルグ街の殺人」から始まった推理小説の形式を継承し、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ誕生にも刺激を与えた、イギリス最初の長編推理小説。
ミステリー史上、不朽の名作として、一読の価値ありではないかな、と思いました。

→おすすめミステリの紹介はこちら

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