■読書日記(2005年7-10月)


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2005年10月16日

グロリア・ウィーラン 著『家なき鳥』

2005年10月02日

ウィリアム・モリス 著『世界のはての泉』

2005年08月14日

有栖川有栖 著『双頭の悪魔』

2005年08月06日

エリス・ピーターズ 著『修道士カドフェル(16) 異端の徒弟』

2005年08月01日

クラフト・エヴィング商會 著『アナ・トレントの鞄』

2005年07月03日

エリス・ピーターズ 著
『修道士カドフェル(15) ハルイン修道士の告白』



「家なき鳥」

グロリア・ウィーラン 著/代田亜香子 訳(白水社)
2005/10/16

おもしろくて、2時間くらいで一気に読んでしまいました。勢いにまかせて一言で説明すると、この物語、インド版「おしん」という感じ。

舞台はインド。主人公は、貧しいながらも家族と幸せに暮らしていた少女コリー。13歳のある日、彼女はお嫁に行くことに。
ところが結婚相手の少年ハリは重病で、ハリの家族は彼をガンジス川へ連れていく旅費をつくるため、コリーの持参金をあてにしていたのでした。 ガンジス川へは行ったものの、ハリはすぐに亡くなり、コリーは未亡人に。
義母は未亡人となったコリーをこき使い、意地の悪い罵声を浴びせ、とても冷たくあたります。
やがて、やさしかった義妹がコリーの未亡人年金を持参金にして幸せに嫁ぎ、読み書きを教えてくれた義父が亡くなると、 義母はコリーを未亡人の街ヴリンダーヴァンに置き去りにしてしまうのです。
コリーの持ち物は、わずかのお金と、義父の形見であるタゴールの詩集、そして嫁入り道具に自ら刺繍したキルトだけ。
けれども彼女は絶望することなく、未亡人の街でさまざまな人たちに出会い、やがてほんとうの幸せを見つけるのでした。

コリーが義母にひどくいじめられ働かされるところ、そんな暮らしの中でも向学心を持ち、義父に字を習うところなど、 ほんとうに「おしん」にそっくり。インドの貧しさも、「おしん」で描かれていた戦前の日本の様子と似ています。
『家なき鳥』に描かれているのは、現代の日本の生活からは考えられないインドの現状ですが、ほんの少し昔までは、 日本も貧しく、満足に食べられず学校にも行けない子どもがたくさんいたのです。

身分制度や女性蔑視の問題も孕んでいる『家なき鳥』の物語。つよく印象に残ったのは、教育の重要性や、手に職をもつことの大切さです。
主人公コリーは、厳しい暮らしの中でもタゴールの詩を心の支えにしていましたし、実母から習いおぼえた刺繍の腕で、運命を切り開きます。
「おしん」も読み書きそろばんを習ったり、髪結いの修行をしたりしていたな、なんて思い出します。
読み書きができるということは、本を読めるということであり、学問や教養を身につけられるということ。 新しい視点を知り、いろいろな物の考え方ができるようになるということです。
コリーなら、詩を心のなかの灯火とすることができ、その教養が人との出会いにもつながりましたし、 おしんなら、自分で商売をおこすまでに自立心を養うことができたのです。

いまの日本では、義務教育があり、本も思う存分読むことができ、いろいろな考え方を学ぶことができます。 そして何より、自由に生きることができるのです。
現在の日本の社会に、なんの問題もないと言っているわけではありません。物質的には豊かで、恵まれすぎているほどなのですから、 そのことを自覚し、考えないわけにはいきません。
また『家なき鳥』に描かれたインドの生活も、貧困と苦しみだけがあるのではなく、 日本人が失ってしまった敬虔な信仰心や、母から子へと継承されていくキルト作りの伝統など、わたしたちが学ぶべきところが、たくさんあります。

コリーが掴んだ幸せに勇気づけられながら、インドと日本の暮らしの違いと共通点、ひいてはこの世界の多様性と普遍性について、 考えずにはいられませんでした。

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「世界のはての泉 ウィリアム・モリス・コレクション」

ウィリアム・モリス 著/川端康雄、兼松誠一 訳(晶文社)
2005/10/02

いやはや、長い旅路でした。そしてさわやかな、喜びにみちた旅でした。

小国アプミーズの若き王子ラルフは、故郷を退屈に思い、ある日冒険の旅に出ます。
旅の道すがら出会った美しい女王との恋と別離、ふるさとから遠くはなれた街や森で陥る危難。 やがてラルフは運命に導かれるようにして、その水を飲むものに若さと健康と幸福をもたらすと言われる、 <世界のはての泉>を目指します。
<泉>をめざす旅の途上で、ラルフは真の伴侶となるべき女性アーシュラと出会い、結婚します。 そして彼女とともに泉の水を飲み、2人でラルフの故郷アプミーズへと帰り、祝福と歓迎を受けるのです。
ふたりは永い生涯をアプミーズで誠実に幸せに暮らし、死を迎え、葬られます。そこで「物語は終わる」のです。

この物語の何よりの美点は、ラルフ王子が泉の水を飲んだところで終わりになるのではなく、帰郷の旅についても丁寧に描かれているところです。
泉へ至る旅の往路で通った街や村を、もう一度たどりなおして故郷へと戻る復路についての物語にこそ、この作品の真価があるのではないでしょうか。
主人公ラルフの成長物語として読む場合には、帰郷の旅においてラルフがいかに大人になったかを知ることができます。 また復路の旅と主人公の無事の帰還を描ききることが、この物語を完全なものとし、すぐれたファンタジーとして成立させていると思います。
往路では若く無邪気で、未熟だったラルフが、復路においてすばらしい成長ぶりを示し、多くの人々に平和と友情をもたらしていく様子は、 読者に安心と慰め、癒しを与えずにはおきません。
これこそトールキンが言うところの* eucatastrophe<幸福な大団円>と言えるのではないでしょうか。
そもそもルイスやトールキンは、ウィリアム・モリスのファンタジー作品に影響を受け、 『ナルニア国ものがたり』や『指輪物語』を著したのですから、モリスの最高傑作である『世界のはての泉』は、 ファンタジーのお手本とも言うべき作品なのでしょう。

他につよく印象に残ったこの作品の特徴は、文体の明確で堅固なこと。
「想像上の風景をきめ細かく、立体的にえがくこと、登場人物の心の動きにしても、自然描写と変わらず、 近代小説的な心理描写によってではなく、事物に即してつたえること」
巻末の訳者解説にもあるとおり、モリスの文体は、少しも小説的でないのです。 わたしも詳しくはありませんが、中世のロマンスか、古代の叙事詩を想起させる文章です。
このような文体は<物語(ロマンス)>を語る上で、不可欠のものではないかと思います。
現代作家のファンタジーを読むときにわたしが不満を感じるのはいつもそれで、 登場人物の心理描写が過剰にすぎる、ということなのです。
登場人物の心の動きを、微に入り細を穿って描写する必要など、<物語(ロマンス)>にはありません。 それは近代になって確立された<小説>の文体であって、<物語(ロマンス)>を語るのにふさわしいとは思えません。
現代作家のファンタジーは、心理描写に腐心するあまり、物語の結構を損ねているように思えることが多く、残念でなりません。
『世界のはての泉』を読み始めたとき、小説的な描写に慣れきっているわたしには、ラルフ王子の人格設定が、 単純で深みのないように感じられたのですが、この作品が<物語(ロマンス)>であり、騎士道物語、英雄譚であり、 ファンタジーであるならば、登場人物の心理描写はむしろ蛇足なのです。
物語のかたりくち、文体の点でも、『世界のはての泉』はお手本と言えるのではないでしょうか。


*eucatastrophe<幸福な大団円>
J・R・R・トールキン 著/杉山洋子 訳『妖精物語の国へ』(ちくま文庫)収載のエッセイ「妖精物語について」に出てくる言葉。 訳者注によると、dyscatastrophe<悲劇の大詰め>とともに 「トールキンの造語で、eu-(よい)とdys-(悪い)という接頭語をそれぞれcatastrophe(破局、破滅、悲劇の大詰め)につけたもの」 とのこと。

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「双頭の悪魔」

有栖川有栖 著(創元推理文庫)
2005/08/14

これは、友人に借りた本。原稿用紙1,000枚の長篇ということで、一冊でかなり楽しめました。
友人の言ったとおり本格推理もので、論理的推理による犯人当て(フーダニット)の面白さを存分に味わうことができます。

推理小説と言っても、わたしはわりとトリックよりも物語重視の作品ばかりを読んでいるので(たとえばカドフェルとか)、 純粋な謎解きというのが新鮮に感じられました。
「読者への挑戦」が3度も挟み込まれていて、いちいち推理しながら読み進めるのですが、これが楽しい。ほんと、現実逃避には最適です。

第一の挑戦に関しては、わたしの推理、パーフェクトだったのですが、第二の挑戦でこけました。 最後の挑戦は…論理的推理に挫折して、山勘で犯人の名前だけは当たったのですが、 事件の全貌はさっぱり。読み終えて、すべての謎が解けたところで、ようやく頭の中がすっきりしました。
凄惨な殺人事件が描かれてはいるのですが、エピローグはさわやかで、読後感は良いです。

もはや古典になっているミステリや海外ものだと、その時代の風俗や、舞台となっている国の文化なんかを理解していないと、 見破れないトリックもたくさんあるので、真正面からフェアに推理を楽しめるのは、 現代日本の本格ミステリを読むことの醍醐味だと思います。

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「修道士カドフェル(16) 異端の徒弟」

エリス・ピーターズ 著/岡 達子 訳(光文社文庫)
2005/08/06

今回も、読み始めるとぐいぐい引き込まれ、後半は今日一日で、一気に読んでしまいました。

聖ウィニフレッドの移葬祭を控え、賑わう修道院の広場に運び込まれた柩。 それは巡礼先で亡くなった羊毛商の遺体をおさめたもので、忠実な彼の徒弟が、故郷まで運んで帰ってきたのでした。 故人の願いは、修道院の墓地に埋葬してもらうこと。たまたま居合わせた大司教の使者が故人の信仰を疑い、 この願いを退けようとしますが、徒弟イレーヴの証言もあり、疑いは晴らされ、 故人は無事、修道院内の墓地に埋葬されます。
ところが奸計により、今度は徒弟イレーヴが異端として告発され、さらに告発した張本人が、他殺体で発見されます。
殺人者は、告発された徒弟イレーヴなのか、それとも…。

このお話の発端となる「異端」の問題が、 中世ヨーロッパ世界やキリスト教になじみのない読者にとって、理解しにくいのは事実でしょう。
三位一体、原罪、永罰、魂の救済…今回、修道士ものらしく、こういったことを論じる場面が多いので、 興味のない人には、そのあたり退屈かもしれません。 (そこは適当に読み飛ばせばいいとも思うけれども)

あと、事件の鍵になる、皇女テオファノの詩篇入り祈祷書。中世の目も眩むような美しい写本は、 現代の印刷され消費される「本」とは、まったく価値が異なります。中世における書物の価値や性質をよく理解しないと、 今回の事件の本質は、わかりにくいかもしれません。
印刷技術のなかった時代、書物はたいへん貴重なもので、図書館では鎖につながれすべて禁帯出だったと言います。
ひと文字、ひと文字、筆写僧たちの手で綴られ、美しい装飾の施された写本は、金銭的価値よりも、 芸術的価値の高さで珍重されたに違いありません。
本好きを自称するわたしとしては、中世の写本、ぜひ実物を見てみたいところです。

『異端の徒弟』に登場する詩篇入り祈祷書は、アイルランドの修道士ダイアーメイドの作となっていて、 アイルランドの写本の技術の高さをうかがい知ることもできます。
井村君江 著『ケルトの神話』(ちくま文庫)によると、ケルトの神話や伝説は、キリスト教の筆写僧たちによって、 手写本の形で残されており、現存するものは960にものぼるのだそうです。グレンダロックの修道院は、 一時期、ヨーロッパ各地の僧が集まってきて、福音書などとともに古い伝承も数多く筆写され、文芸や学問の中心だったとか。 ケルト好きのわたしは、そんなことにも思いをはせ、存分に楽しみました。

ま、何だかんだ言って、カドフェルとヒューがタッグを組んで活躍する場面もあるし、 ラドルファス院長は相変わらず頼りになるし、初登場のロジャー・ド・クリントン司教はかっこいいしで、ミーハーに楽しむことももちろん出来ます。 要は、今回もカドフェルは面白かったということ(^^)

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「アナ・トレントの鞄」

クラフト・エヴィング商會 著(新潮社)
2005/08/01

この本は、クラフト・エヴィング商會の、最新の商品カタログ。 クラフトさんたち手作りの、不思議の品の数々を、坂本真典氏のすばらしい写真でもって、久しぶりに眺めることができます。
処女作『どこかにいってしまったものたち』を彷彿させながらも、あの頃の、凝りに凝ったオブジェとは違う、 あっさりとしたさりげない品物ばかり。そのさりげなさは、不思議の品々の向こうにひろがる、 見知らぬ他者の物語を、そして読者自身の物語を、暗示しています。

驚いたのは、「小窓」という商品が、「コーネルの箱」を想起させるような、小さな箱だったこと。
チャールズ・シミック 著/柴田元幸 訳『コーネルの箱』(文藝春秋)。
この本に載っているコーネルのオブジェ「青い半島に向かって(エミリー・ディキンソンに)」という作品に、イメージがとてもよく似ているのです。
「小窓」の写真を見て、すぐこの作品を思い出し、あっ、と思いました。
そもそも『コーネルの箱』という本は、クラフト・エヴィング商會のつくるオブジェに似た、 ”美しい空想”の匂いがするのに魅かれて、手にとったのでしたから。

クラフト・エヴィング商會のオブジェも、だんだんと、技巧に頼らない、あえて作り込まないものになってきたと感じますが、 コーネルの箱もまた、晩年に近づくにつれ、”空っぽ”になっていったのだと言います。

空っぽ、それはきっと、無限ということ。


無限――語るべき物語を持たない時間。
あなたは自分のささやかな糸ですべてを測っている気がしている。それとも靴紐の切れ端で?
だからこそ、コーネルの晩年の箱は、どれもほとんど空っぽなのだ。
――「世界の果てのホテル」
チャールズ・シミック 著/柴田元幸 訳『コーネルの箱』(文藝春秋)より

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「修道士カドフェル(15) ハルイン修道士の告白」

エリス・ピーターズ 著/岡本浜江 訳(光文社文庫)
2005/07/03

今回も、ドラマティックで面白かったです。

瀕死の重傷を負ったハルイン修道士は、18年前に犯した罪…身籠った恋人に堕胎を促す薬草を使わせ、 死に至らしめたことを懺悔します。急死に一生を得たハルインは、恋人の墓に祈りをささげるため、 カドフェルとともに贖罪の旅へ出ますが、その旅こそが、18年前の事件の驚くべき真相を、白日の下にさらすことに…。

18年前の事件の真相については、あらかた想像どおりの展開だったのですが、何故そんなことになったのかという、 動機・理由の部分が、わたしにとっては予想だにしないものでした。 いや、そう言われてみれば、それはあるよねっていう、これはいわゆる男女の愛憎のお話。
この物語のキーパーソンである、ハルインのかつての恋人の母、アデレーズ・ド・クレアリーの誇り高さが、とにかく印象深いです。
18年前の事件を思い出させるような、現在の若い恋人たちの試練の行く末も、どうなっちゃうのかなとハラハラ、ドキドキ。 この恋人たちの片割れ、青年ロースランのキャラクターがさわやかで良かったです。

<修道士カドフェル>って、中世イギリス、つまり現代日本とはかけはなれた、ある種の異世界が舞台ってことで、 個人的にはファンタジーのような楽しみ方も出来るなと、思っているんですが。
つまらん携帯電話やテレビやインターネットが出てきて、ふっと現実にひきもどされるということがなく、 愛憎劇なら愛憎劇の中に、どっぷりつかって楽しめるというか。
あと、このシリーズを読んで、イギリスって、複雑な歴史と民族の錯綜があるんだなあと、改めて知りました。
現代の日本人が思い描くイギリス人の典型的なイメージって、金髪碧眼に白い肌って感じだけど、 このイメージは誤りだってことに気づかされます。シリーズの主人公カドフェルはウェールズ人で、金髪碧眼じゃないんですよね。
だいたいイギリス人って言い方がおかしいのか。

まあとにかく、いろんな角度から楽しめる<修道士カドフェル>シリーズ、癒し系ミステリーとして、ぜひおすすめです。

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