■読書日記(2007年7月)


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2007年07月14日

ウォルター・デ・ラ・メア 作『デ・ラ・メア物語集 3』

2007年07月07日

ウォルター・デ・ラ・メア 作『デ・ラ・メア物語集 2』

2007年07月01日

ウォルター・デ・ラ・メア 作『デ・ラ・メア物語集 1』



「デ・ラ・メア物語集 3」

ウォルター・デ・ラ・メア 作/マクワガ葉子 訳/津田真帆 絵(大日本図書)
2007/07/14

「幼な心の詩人」とも評される、20世紀前半の英国を代表する詩人、幻想小説家ウォルター・デ・ラ・メア。
全3巻の『デ・ラ・メア物語集』は、津田真帆さんの挿絵も素敵な物語集で、ここにおさめられた作品は、ほとんどがカーネギー賞を受賞した「子どものための物語集」(Collected Stories for Children, 1947)からとられたものです。
この第3巻には、ユーモアとナンセンスの底に人生の哀しみが込められた5篇「鼻」「どろぼう」「おさげ会社」「オールド・ライオン号」「ハエになったマライア」が収録されています。

* * *

「鼻」は、英国風のナンセンスが効いた一篇。主人公サムの洗礼式に現われた、招かれざる大おばカレン・ハプチ。ひとを憎んで生きている彼女はサムの母に、あかんぼうの鼻はロウでできている、と囁きます。 両親はその言葉を信じ込んで嘆き悲しみ、サムは世にも不幸な運命を背負って生きていかなければならなくなるのですが…。
ほんとうはロウの鼻なんかであるはずはないのに、そうと信じ込んでしまった両親とサムの滑稽さ、その底に流れる人生の哀しみ。 サムは孤独を余儀なくされましたが、読書を愛し、シェイクスピアの戯曲を朗読しては心慰められる姿など、本を愛するすべての人が思いを重ねられるのでは。 やがて孤独ながらも自分の世界を守ってしずかに暮らしていたサムが、自分の鼻がほんものの鼻であるという真実を知り、状況が一変するのですが、このあたりの迫真の心理描写も、上手いなあと唸らされます。

「どろぼう」もまた、滑稽さのなかに人生の哀しみがにじんだ秀逸の作品。どろぼうをして大金持ちになった男が、年をとって結婚を夢みますが、邪悪な人生を送ってきた彼の花嫁になってくれる女性は見つかりません。 やがて大どろぼうは後悔とうたぐりとみじめな気持ちで一杯になり、財産を寄付したり売り払ったりした上、召使たちにもひまを出し、とうとうひとりぼっちになってしまいますが…。
悪いことをしてたくさんの金品を手に入れても、心のやすらぎを得られなかった大どろぼうの孤独と哀しみが、ひしひしと伝わるお話。大どろぼうがどろぼうに入られることをおそれて戸締りを厳重にするくだりなど滑稽ですが、本人は深刻です。
けれど、ひとりぼっちの大どろぼうも、最後にはたったひとつの救いを得ることができます。結末まで、どうぞ実際に読んでみてください。涙なしに読み終えることはできない、しずかな、美しい結びとなっています。

「おさげ会社」は、最初からいもしない子がいなくなってしまった、その子の名はバーバラ・アラン、おさげのかわいい女の子―というミス・ローリングスの空想に端を発した、明るくたのしいお話です。 ミス・ローリングスはバーバラ・アランを探して、新聞に広告をだし、おさげの女の子たちを集めて寄宿学校を作ってしまいます。
いもしない子がいなくなってしまうという着想が面白く、こういう荒唐無稽とも思える空想をどんどん展開させて物語を作ってしまうところは、デ・ラ・メアならではの筆さばきといえるでしょう。

「オールド・ライオン号」は、船乗りのバンプスさんがアフリカで出会った不思議な猿ジャスパーが主人公。 ジャスパーは賢く、人の言葉をすぐ話せるようになり、立ち居振る舞いも優雅だったので、劇場に出て、お金をどんどんかせぐようになりますが…。
猿のジャスパーの孤独な様子、みずからの心の深淵をしずかに見つめているような姿が、とりわけ印象的な作品です。

「ハエになったマライア」は、何気なく始まりながら、とても深いものを描いた、不思議な味わいの一篇。主人公の少女マライアは、ある朝、ハエを見て、そのハエを特別なハエであるように感じ、やがてハエそのものになってしまったような感覚を味わいます。 「もしそんなことが可能なら、マライアはそのとき同時にふたつのものになった、あるいは時をずらして、それぞれのものになったよう」な体験をするのです。 時計の針がほんの三分うごいた間に、三世紀はたってしまったように思えた、この深い体験を、マライアは大人たちに話してきかせようとしますが、大人たちには少しも理解できません…。
このようなお話は、やはりデ・ラ・メアでなくては描けないものでしょう。デ・ラ・メアの作品には、いつも”世界の秘密”が、そっと紛れているように思えます。
「子どもは、もうすでに完全で生まれてくる」(あとがきより)と語ったデ・ラ・メア。子どもの頃は感覚的に知っていた”世界の秘密”を、大人はいつのまにか忘れてしまっているけれど、 デ・ラ・メアはずっと幼な心を持ち続け、多くの詩と物語を、後世に残してくれたのです。

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「デ・ラ・メア物語集 2」

ウォルター・デ・ラ・メア 作/マクワガ葉子 訳/津田真帆 絵(大日本図書)
2007/07/07

「幼な心の詩人」とも評される、20世紀前半の英国を代表する詩人、幻想小説家ウォルター・デ・ラ・メア。
全3巻の『デ・ラ・メア物語集』は、津田真帆さんの挿絵も素敵な物語集で、ここにおさめられた作品は、ほとんどがカーネギー賞を受賞した「子どものための物語集」(Collected Stories for Children, 1947)からとられたものです。
この第2巻には、日常生活の中にふと紛れ込むふしぎな世界が描かれた5篇「ルーシー」「白い鳥のおとずれ」「かかし」「ミス・ジマイマ」「なぞなぞ」が収録されています。
このうち「ルーシー」は、福音館文庫の『九つの銅貨』と重複して収録されていますが、訳が違うことを指摘しておきます。

* * *

第2巻におさめられた5篇の共通点として、日常生活の中に紛れ込むふしぎ、ふしぎの紛れ込む契機としての主人公たちの孤独、また田園風景や自然の詩情あふれる美しい描写、があげられるかと思います。

「ルーシー」のあらすじについては、『九つの銅貨』の読書日記(→Click!)をご覧ください。
この物語の主人公ジーン・エルスペスは、孤独であるからこそ、心のなかにたいせつな友だち「ルーシー」を住まわせることができました。
一読したとき、このお話には何か大事なこと、世界のある秘密のようなものが描かれていると感じて、どきどきしました。
そういえばトーベ・ヤンソンの自伝的小説『彫刻家の娘』にも、少女トーベが心のなかに作り上げた友人たちと会話する様子が描かれています。 大人たちはほんとうは、そんなたいせつな友だちがいたことを、忘れてしまっているだけなのかもしれません。

「白い鳥のおとずれ」には、左腕の障害のためにひとりぼっちだったトム・ネビスが、十歳の頃に見た、ある不思議な光景が描かれています。
たいせつな幼い妹エミリーを亡くし、妹のお墓に毎月訪れていたトムは、お墓参りの帰り道、雨でできた牧場の水たまりに、二羽の見知らぬ鳥を見つけます。 ふしぎな白い美しい鳥。その光景の中に深い幻想を見たトムは、やがて故国を遠くはなれた地へ旅に出て、二度と戻ることはなかったのでした。
デ・ラ・メアは、この物語の主人公トム・ネビスに、おそらく自分自身を重ね合わせていたのかもしれない、と思えました。
トムには、「この世は、ほとんどひとつの夢の、たえず移りかわるパノラマではないかと思えた」のですが、これは「うつし世は夢、夜の夢こそまこと」という名言を残した作者自身の、真実の思いであったことでしょう。

「かかし」は、ボルソバー老人が子どもの頃に見た妖精について、姪のレティシアに話して聞かせるという趣向になっています。 この物語の導入、ボルソバー老人の家と、牧場と、それらをとりまく朝の光の描写の部分など、まるで美しい一葉の絵を見るようで、詩人デ・ラ・メアの描く物語の魅力のひとつは、こういった詩情あふれる描写にあるなあ、としみじみ思ったことです。

「ミス・ジマイマ」は、「かかし」と似た趣向で、スーザンの祖母(彼女の名もスーザン)が孫娘にせがまれ、少女の頃に見た妖精について話して聞かせます。
少女だった頃のスーザンは、父を亡くし、母親が病のため療養に出ることになったため、何ヶ月かのあいだ親戚の農場にあずけられます。ここでも主人公はやはり孤独で、その孤独な心が妖精を見つけてしまうようです。
この物語では、妖精は人間の子ども(スーザン)を連れ去ろうとする、冷たく非人間的な一面をのぞかせており、それもまた興味深いです。

「なぞなぞ」は、原題が「The Riddle」。日本語の語感としては「なぞなぞ」というより、「なぞめいた話」とでもしたほうが良い内容の、ほんとうにふしぎな味わいの作品です。 おばあさまと一緒に暮らすことになった七人の子どもたちが、その古い家の、予備の寝室のすみにある、カシの木のひつの中に、一人、また一人と消えていく……ただそれだけのお話を、 こんなにも美しく、恐怖よりも安らぎに満ちたイメージで描くことができるのは、やはりデ・ラ・メアの詩人としての資質が発揮されていると言えるでしょうか。
『ナルニア国ものがたり』にも似たはじまりなのに、たんすではなくカシの木のひつの中に消えた子どもたちは、そのまま戻ってくることはありません。
カシの木のひつのある寝室で、決して遊んではいけませんよと、おばあさまはなぜ、わざわざ忠告したりしたのでしょう?
けれどもそれもすべてなぞのまま、そのなぞめいた雰囲気こそが、この作品のふしぎな魅力になっています。

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「デ・ラ・メア物語集 1」

ウォルター・デ・ラ・メア 作/マクワガ葉子 訳/津田真帆 絵(大日本図書)
2007/07/01

「幼な心の詩人」とも評される、20世紀前半の英国を代表する詩人、幻想小説家ウォルター・デ・ラ・メア。
全3巻の『デ・ラ・メア物語集』は、津田真帆さんの挿絵も素敵な物語集で、ここにおさめられた作品は、ほとんどがカーネギー賞を受賞した「子どものための物語集」(Collected Stories for Children, 1947)からとられたものです。
この第1巻には、おとぎ話の味わいをもつ5篇「魚の王さま」「ウォリックシャーの三人の眠る少年」「オランダ・チーズ」「一日一ペニー―小人の賃金」「美しいマヴァンウィ」が収録されています。
このうち「美しいマヴァンウィ」をのぞく4篇の作品が、福音館文庫の『九つの銅貨』と重複して収録されていますが、タイトル及び訳が違うことを指摘しておきます。

* * *

「魚の王さま」「オランダ・チーズ」(=「チーズのお日さま」)「一日一ペニー―小人の賃金」(=「九つの銅貨」)のあらすじと感想については、『九つの銅貨』の読書日記(→Click!)をご覧ください。

「ウォリックシャーの三人の眠る少年」(=「ウォリックシャーの眠り小僧」)については、『九つの銅貨』のほうに書きそびれたことを、こちらに書きとめておこうと思います。
このおはなしの中に出てくるトム・デイカーの唄というのは、ウィリアム・ブレイクの詩「煙突掃除の少年」のことです。 ブレイクの詩集を読み返して全文を確認してみましたが、偉大な先達の作品からインスピレーションを得て、こんなにも素晴らしい幻想世界を描くことができるということに、深く感じ入りました。
デ・ラ・メア作品は、とにかく美しい詩的な描写が印象的で、この「ウォリックシャーの…」では、やはり最後、眠り続けていた三人の小僧たちの身体に魂が戻ってくる場面の表現が秀逸です。
だれもいませんでした。でも、娘が広い階段のところで、その若々しい首をかしげ、夢中になって耳をそばだてていると、そこに風がふっと、 まるでダマスカスの広場から吹くかんばしい風のように通りすぎました。なんの音もなく、はく息ほどの音もせずかすかに、 それなのにほとんどたえがたいほどのあまい春の香り―まがりくねった川ぞいの、鳥がよりつどい、羊が草をはむ牧草地から、そのまま運ばれてきた香り、ささやきの芳香でした。 はるかな記憶がそのとき娘の眼の前でかたちとなり、楽しげに通りすぎていったかのようでした。

『デ・ラ・メア物語集 1』103ページより

読んでいて、自分の耳もとにも、はるかな記憶をとじこめた、かぐわしい快い風が吹きすぎていったような、よい心持ちがしました。

「美しいマヴァンウィ」は、「魚の王さま」と同じ、登場人物が動物に「変身」するという魔法が題材になっています。
むかしむかし、ウェールズの辺境の山々のふもとの古いお城に、領主とその美しい娘マヴァンウィが住んでいました。 父君はマヴァンウィを愛するあまり、姫が自分のもとからいずれ去っていくことをおそれていました。 マヴァンウィは自由に憧れますが、父君は城の外へ一歩でも出ることを許してはくれません。
そんなある日、隠しても隠しきれない姫の美しさを噂に聞いて、城を訪れた若者のひとりに、姫は心奪われます。 若者は姫との結婚を許してくれるよう父君に申し入れますが、父君は烈火のごとくいかりくるい…。
「魚の王さま」では水に惹かれる主人公ジョンが魚に変身しますが、がんこなマヴァンウィの父君はロバに変身してしまいます。
こっけいであわれなロバの姿。そんな父君を忠実に愛するマヴァンウィが、父君を救うために、初めての夜の森へと、凛として出てゆく姿が対照的。
月の光に満たされた夜の森の描写はやはり素晴らしく、デ・ラ・メアならではの夢かうつつか判然としない美しさに彩られています。

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