■読書日記(2006年9月)


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2006年09月24日

コナン・ドイル 著『シャーロック・ホームズの最後のあいさつ』

2006年09月17日

エリス・ピーターズ 著『修道士カドフェルの出現』

2006年09月10日

トーベ・ヤンソン 著『フェアプレイ』

2006年09月03日

平出 隆 著『猫の客』



「シャーロック・ホームズの最後のあいさつ」

コナン・ドイル 著/阿部知二 訳(創元推理文庫)
2006/09/24

またミステリーがむしょうに読みたくなってきたので、ホームズを手にとってみました。
創元推理文庫から出ているドイルのホームズものの短篇集は全部で5冊。この本は第四短篇集にあたります。
しみじみと思うのは、ドイルってほんとうに何度もホームズものを打ち切りにしようとしたんだなあ、ってこと。 しかもそれが、結局かなわなかったわけで。
この短篇集の最後に収録された、まさに「最後のあいさつ」で、ホームズものの執筆中止を表明したというのに、 ドイルは再び筆を執り、処女作から延々四十年も書き続けたというのですから、当時のファンの熱意にはすさまじいものがあったのでしょう。
後世のファンとしては、書き続けてくれて良かった、としか言いようがありません。ホームズものって、やっぱりミステリーの金字塔ですから。

この短篇集で印象に残った作品といえば、まずは「ボール箱」。
切り取った耳が小包で送られてくるというやや猟奇的な事件の発端が、古典的でないというか現代的というか、ホームズものにしては珍しいなと思ったのです。
巻末の解説によるとこの作品は、作者みずから扇情味をみとめ、短篇集におさめる際に削除したのだそう。 ところが当時アメリカ版の単行本が本国版より早かったために、この一篇がおさめられてしまい、ドイルは発売をさしとめて刷り直しをさせたのだとか。
へえ〜、そんなことがあったんだ、という感じのエピソード。現代なら扇情味だとか不健全だとか、言われるほどの素材でもないのでしょうが…。
でもそういう作者や読者の良識的な判断が働いているからこそ、ホームズものの作風って品を感じさせるのかなあ、などとも思います。
「ボール箱」は、事件の背後にあったどろどろした人間関係や、犯人のみじめな境遇など、ホームズものとしては異色の作品という印象です。

シャーロック・ホームズの兄マイクロフトが再び登場、弟に事件解決を依頼する「ブルース=パーティントン設計書」。
これはストレートに面白いミステリー。一人の役人が死体となって発見され、彼の所持品の中に国家的な機密書類の一部が見つかります。 書類の重要な部分は、某国のスパイに盗まれてしまって…。
まさに古典的な事件。死体移動についてのトリックを暴き、犯人をつきとめるホームズとワトスンの活躍が痛快です。

「瀕死の探偵」は、ホームズの下宿の主婦ハドスンさんが、ワトスン博士のところにやって来て、ホームズが重体だとうったえるところから始まります。
ホームズの容態を真剣に案じるワトスン博士の姿が微笑ましいです。 友だちのいないホームズにとっては、誠実で純粋なワトスン博士は、得難い相棒だっただろうなと思いました。
ホームズもまたワトスン博士を心配する一場面があったりして、ふたりの友情が印象に残る作品です。

そして、「最後のあいさつ」。これまたホームズものの中では異色の作品で、普通ホームズものって、ワトスン博士の記録というかたちをとっていますが、 「最後のあいさつ」は、明らかにワトスン博士が書いたものではないんですよね。
短篇の前半部分は、なかなかホームズもワトスンも登場しなくて、第一次世界大戦の不穏な空気の中、ドイツのスパイたちの物騒なやりとりが続きます。 また作中、ホームズとワトスンは久しぶりに再会したことになっており、ホームズは探偵業を隠退して養蜂と読書の生活を送っていたとされていて、普段のホームズものとは手触りの違う作品になっています。
けれども物語の最後、ホームズが「あいかわらず元気そう」なワトスン博士に語る言葉が印象的です。
「なつかしいワトスン君、きみは、移りかわる時の流れの中の、一つの岩だ」

ホームズ作品は、決まったパターンの中で四十年も書き続けられ、初出からはるかな時が流れた今でも、多くの読者をひきつけていますが、 こんな物語こそ、「移りかわる時の流れの中の、一つの岩」と言えるのかもしれません。

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「修道士カドフェル(21) 修道士カドフェルの出現」

エリス・ピーターズ 著/岡本浜江 他 訳(光文社文庫)
2006/09/17

修道士カドフェルシリーズ最終巻であり、シリーズ唯一の短篇集。
三つの短篇と、ピーターズ女史のまえがきに、修道士カドフェル・シリーズ:ガイドが付された一冊。

「ウッドストックへの道」では、アンティオキアやエルサレム、各地を転々とし戦に身を投じてきた男が、何をきっかけに修道士になったのか、 謎(?)だったカドフェルの過去が明かされます。
シリーズのプロローグともいえる作品。傭兵だった頃のカドフェルを知ることのできる、ファンにとっては貴重な一篇。
雇い主のロジャー・モウデュイットに信頼され、経験豊かな練達の戦士と認められている、壮年のカドフェル・アプ・メイリール・アプ・ダフィッズ。俗世での名前が出てくるところが新鮮です。
シリーズを読破してきたファンとしては、こんな記述にも目がとまります。
「ウェールズ人によくある骨太の、目鼻立ちのくっきりとしたなかなかの好男子で、若いころには女にもさぞもてたことだろう」
…やっぱり。修道士になっても、なお男の色気を感じさせるカドフェルでしたもの。
この作品では、主人であるロジャーが抱える裁判がらみの事件があり、ロジャーを取り巻くどろどろとした人間関係など、 カドフェルシリーズらしい要素もいろいろとあるのですが、短篇ということもあり、ミステリーとしての面白さはそれほどでもなかったかも。
カドフェルシリーズって、ひとりひとりの人間を丁寧に描くことによって成り立つミステリーだから、短篇より長篇が向いているんでしょうね。

「光の価値」は、ヘリバート院長時代のお話。クリスマスを目前にひかえた頃、横暴な荘園主がシュルーズベリの修道院に寄進を申し出ました。 聖母マリアの祭壇に一年を通じて灯される蝋燭の費用と、二本の銀の燭台です。ところが高価な銀の燭台が、イブの夜に忽然と消えうせて…。
さあ、カドフェルの出番です。燭台を寄進したケチで欲張りの荘園主と、若く美しい夫人、夫人の付き人である農奴の女性に、ハンサムな馬扱い人。 いかにもカドフェルシリーズらしい登場人物たち。消えた銀の燭台には、何やらいわくがあるようで…。
この作品では、不作で飢えに苦しむ自営農民たちと、領主に生活を保障されているものの自由がない農奴との違いが浮き彫りにされていて、そんなところも興味深いです。

「目撃者」は、オズウィン修道士がカドフェルの助手をつとめていた頃の、ある事件を描いています。
修道院の会計主任が地代の集金日に何者かにおそわれて、集めたお金を盗まれてしまいます。 カドフェルは犯人を見つけるため、ある巧妙な罠を仕掛けて…。
これは本短篇集の中で、ミステリーとしていちばん面白い作品でした。 カドフェルが仕掛けた罠の巧妙さと、「目撃者」というタイトルとがピタッとはまる、ピーターズ女史の鮮やかなお手並み。
この作品では三者三様の若者像が描かれているのですが、面白かったのは、会計主任のウィリアム・リードが、愚痴っぽく若者の批判をするところ。 「当節の若い者は、何をたのんでもあまり興味を示さない」「たいていが軽率で、夜遊びばかりして」などとこぼすのですが、 きっといつの時代にも、こんなふうに若者たちに嘆息する大人はいたのでしょうね。
会計主任がおそわれたことで、若者たちの意外な一面が明らかになり、なるほどと思わされます。

やっぱりカドフェルは面白い! なので、これがシリーズ完結編かと思うと、少し淋しい気分でもあります。 また、第一巻から再読しよう…なんて思っているところです。

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「フェアプレイ トーベ・ヤンソン・コレクション7」

トーベ・ヤンソン 著/冨原眞弓 訳(筑摩書房)
2006/09/10

版画家のヨンナ、作家のマリ。初老とおぼしき二人の女性を主人公に、ごく短いおはなしが積み重ねられていく短篇集。
マリのアトリエの壁にかざられた絵を、ヨンナが勝手に模様替えする話「掛けかえる」、フィンランド湾沖の孤島で過ごす二人のもとに、マリの母親の知人であるヘルガという女性がたずねてくる話「あるとき、六月に」、 アリゾナ縦断の長距離バスの旅路のはて、フェニックスにたどり着いた二人が、ヴェリティというホテルの客室係と交流する話「大都市フェニックスで」等々。
舞台はくるくると移りかわり、時間の経過も、物語の並び通りというわけではありません。 トーベ・ヤンソンらしく、無駄な説明のいっさい省かれた短篇群は、読者に、さまざまな想像をめぐらしながら読む楽しみを与えています。

読み始めてすぐに気づくのは、主人公である二人の老嬢が、いかにもトーベ・ヤンソンに似ていること。
ヨンナとマリそれぞれに個性的な性格なのだけれど、そのどちらもが作者ヤンソン自身を彷彿させます。 二人の職業は版画家と作家。ヤンソンは両方を兼ねた存在なのですから、やはり二人ともが作者の分身と言えるのかもしれません。
二人の老嬢の暮らす場所は、ヘルシンキ市内のアトリエであり、フィンランド湾沖のちいさな孤島であったりしますが、これも作者自身と重なります。
他にも作者ヤンソンの姿を思わせる要素はいくつもあって、その点、ファンには面白く読める作品になっています。

トーベ・ヤンソンのファンを自認する者として、ひとつ、これはと思う要素をあげるとするなら…。
「ヨンナは立ちあがり、夕食の食器をベッドの下の箱に投げいれ、それから答える。」という一文。
これは孤島を舞台にした話「狩人の発想について」に出てくるのだけれども、ふつうに読んでいたら、なぜ洗い物の食器をベッドの下に? と思うかもしれません。
けれどもこれって、ムーミン・コミックスに出てくるエピソード、食べたあとの食器は箱にためておいて、雨が降ったら外に出して汚れを洗い流す、というムーミンママの習慣を、 几帳面なフィリフヨンカがびっくり驚いて批判する、という一場面に重なっているのです。
ムーミンママのモデルは、画家であったヤンソンの母親。
この『フェアプレイ』にしても「ムーミンシリーズ」にしても、ヤンソンの作品は、ファンタジックで超現実的なようでいて、必ず実体験をもとに描かれているんですよね。

ヨンナとマリがヤンソンの分身なのだとすれば、彼女たちの芸術家ぶり、偏屈ぶりには、ファンとして、やっぱり「にやり」とさせられます。
人間ぎらいで孤独を愛する、とっつきにくい性格。感受性が鋭くて、老いを自覚すれどもプライドは捨てきれず…。
ヤンソンさんは生前、ムーミンの生みの親として、とってもあたたかくて優しい人柄を期待されがちだっただろうな、と思うのですが、 実際はまさに「孤独を愛する、とっつきにくい性格」だったのではないかな、なんて想像してしまいます。

ヤンソン作品の、ある特徴的な表現として、この作品で気づいたことがあります。
冒頭の「掛けかえる」という作品に出てくる、次の一文。
「文句なく一級の仕事をやりとげた仲間だけれど、心の奥底では彼らをほんとうに好きだったわけではないのだ、とふいに了解する。」
ヤンソンの作品には、登場人物が(ことに老いた女性が)何かをほんとうは好きでなかった、嫌いだったという事実に、ふいに気づくという場面が、よくあります。
嫌いだったものは、コーヒーであったり、シャンパンであったり、文句なく一級の仕事をやりとげた仲間であったりします。
誰もが好きだと言うから、薦められるから、周囲に流されて好きだと思っていた当たり前のものを、ほんとうは嫌いだったと気づく、その瞬間を、ヤンソンさんは作中で何度も繰り返し描いているのです。
わたしは、この「瞬間」を読むたびに、いつもはっとさせられます。
わたしにも、ほんとうは好きではないもの、嫌いだったものが、たくさんたくさんあるような気がして。

「掛けかえる」の最後で、「心の奥底では彼らをほんとうに好きだったわけではない」と気づいたマリは、こう思いめぐらしています。
世にも単純な事柄をようやく理解するというのは、なんとまあ、たやすいことかと。
マリの感慨は、老いてこそ、たどり着ける境地なのかもしれません。

→トーベ・ヤンソンの本の紹介はこちら

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「猫の客」

平出 隆 著(河出書房新社)
2006/09/03

ときは1988年、昭和も終わろうとしていた頃。
古い大きな日本家屋の離れを借りて住んでいた著者夫婦は、ある日、近所にまぎれ込んできた一匹の仔猫と出会います。
隣の家で飼われることになった仔猫<チビ>は、やがて離れの庭に入り込んで遊んでいくようになり、その様子を見守るうち、「猫の客」は夫婦にとって、かけがえのない存在になっていきます――
バブルの狂乱の狭間の、奇跡のようにしずかな暮らし。ふしぎな猫と詩人と妻の、あたたかく切ない交流の物語。

読みはじめてすぐに、端正な美しい日本語に魅せられてしまいました。
「葉書でドナルド・エヴァンズに」「ウィリアム・ブレイクのバット」を読んで、平出 隆氏のことを知り、この本も手にとったのですが、 詩人の風景の切り取り方や、言葉の選び方の洗練には、やはり唸らされるものがあります。
「葉書で〜」などは、夭折の画家ドナルド・エヴァンズについて、またアメリカやオランダ、イギリスの旅について書かれており、全篇にただよう異国の雰囲気が素敵でしたが、 こちら「猫の客」は、古きよき日本情緒、そのしずけさが何とも心地よい小説でした。

とにかく、<チビ>がかわいい。
わたしはどちらかというと犬派で、猫好きというわけではないのですが、ここに描かれている<チビ>は、ほんとうに愛おしく感じられます。
この作品は私小説的に書かれており、読んでいるうち、書き手の<チビ>への愛情に感応してしまうのです。
けっして猫の愛くるしさを書き連ねてあるわけではなく、むしろ抑制された筆致であるのに、ここまで猫の愛おしさを表現できるとは。 言葉の力といったものを考えさせられます。

また時代背景と、この小説の中に切り取られたしずかな空間との、対比の素晴らしさ。
古い日本家屋や、庭園、そこでの猫との幸福な暮らしも、やがて時代に押し流されるように過ぎ去ってゆくことの、何ともいえない切なさが、際立っています。
作中で何度も「運命<フォルトゥーナ>」という言葉が繰り返されますが、 人間の力ではどうすることもできない、氾濫する川の流れにも似た時代の渦中で、呆然としたり、焦ったり、迷ったりしながら、それでも日々を生きている著者の姿にも、共感をおぼえます。
文章はとても洗練されていて、まぎれもなく著者は詩人に違いないのに、生きる姿勢に芸術家然とした印象がなく、 変な言い方かもしれませんが等身大という感じがするのです。
これはわたしが、平出氏の著作に惹かれる理由でもあります。

とても読みやすく、ほんの2時間ほどで読了してしまったのでしたが、清々しい、良い時間を過ごすことができました。
美味しい水を飲むように、ゆたかな日本語を味わえる、まさに珠玉の一冊。 ぜひぜひ、猫好きの方も、猫好きでない方も――

→「平出 隆の本」はこちら

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