■読書日記(2006年1月)


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2006年01月31日

トーベ・ヤンソン 著『彫刻家の娘』

2006年01月21日

ロード・ダンセイニ 著『時と神々の物語』

2006年01月08日

エドマンド・デュラック 絵『雪の女王 アンデルセン童話集(1)』

2006年01月02日

ジークフリート・レンツ 著『アルネの遺品』



「彫刻家の娘」

トーベ・ヤンソン 作/冨原眞弓 訳(講談社)
2006/01/31

ムーミン童話の作者が、子ども時代をふりかえって描いた自伝的小説。
「『彫刻家の娘』はしあわせな子ども時代についての物語です」と、ヤンソンさん自身が序文で語っているとおり、 ほんとうに幸せで愛に満ちた、みずみずしい思い出の数々が、ムーミン童話を彷彿させるタッチで描かれています。
冨原眞弓 編訳『トーベ・ヤンソン短篇集』(ちくま文庫)は、研ぎ澄まされた芸術家の感性で描かれた硬質なデッサンといった印象でしたが、 この『彫刻家の娘』は、気負いなくページをめくることのできる、やさしいスケッチといった味わい。

主な登場人物は、もちろんヤンソン一家。
まず、物語の語り手である少女トーベ。ムーミンパパそのものの父、著名な彫刻家ヴィクトル・ヤンソン。 ムーミンママそっくりの母、挿絵画家シグネ・ハンマルステン・ヤンソン。
そして、ヤンソン一家をとりまく、風変わりな人々。彼らの生き様のおかしみと哀しさは、ムーミン谷の住人たちの姿と重なるものがあります。
またこの物語の魅力のひとつに、少女トーベのスパイスのきいた素敵なキャラクターがあります。世界に対するトーベの、幼いながらも芸術家然としたするどい眼差し。奔放な想像力。
ムーミンパパとムーミンママの子どもであるはずのトーベは、「ムーミントロール」ではなく、どこか「ちびのミイ」に似ています。 わたしは「ちびのミイ」の、物事の本質を見抜く目、それを無慈悲なほどはっきりと言葉にする性格が、とても好きです。

『彫刻家の娘』には、印象的なトーベの言葉が、いくつも出てきます。
たとえば「石」というエピソード。通りを行く人々の奇異の目にさらされながら、大きな石をころがしつづけるトーベのモノローグ。
「ほんとうに大切なものがあれば、ほかのものすべてを無視していい」

「エレミア」というエピソードでは、エレミアという風変わりな地質学者の青年とトーベとの、ふたりだけの<ごっこ遊び>の間に、無遠慮に割って入ってきて、 遊びをぶちこわした女性(おそらくは青年を慕う女性)に対して、こう言い放ちます。
「アマチュア! あんたはアマチュアよ! あんたは本物じゃない!」

子どものわがままなどではなく、まさに芸術家らしい心の自由さ、エゴイスティックなまでの奔放さ。
トーベは少女の頃から、芸術とは何か、芸術家とはどうあるべきか、よくわかっていたのでしょう。

でも何よりも印象的だったのは、繰り返される、こんな表現。
「チュールのペチコート」というエピソード。ママの黒いチュールのペチコートを頭からすっぽりかぶって両親のアトリエを眺め、
「アトリエはわたしがいままで見たこともない見知らぬアトリエになった」
また「高潮」というエピソードでの、クライマックスの場面。
「いけすはこわれ、浮きは海峡をこえて沖に流れだす。すばらしい光景だ!
野原の草は水の下にしずみ、水位はますますあがる。嵐と夜のせいで、すべてはまったくあたらしくなった」

子どもの頃、世界はとても新鮮で、いつも何かしらわくわくしていたような気がします。
けれども成長するにつれ、世界をまるで見慣れたもの、見飽きたもののように感じてしまい、新鮮な驚きが少なくなってしまったように思います。
曇ってしまった目をすすいで、周囲をもう一度見渡せば、世界はいつも新しいのだと、この作品が気づかせてくれます。

『彫刻家の娘』は、ムーミン童話のルーツを知ることができ、また独立した小説としての魅力もそなえた、癒し本としてもおすすめの一冊です。

→トーベ・ヤンソンの小説の紹介はこちら

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「時と神々の物語」

ロード・ダンセイニ 著/中野善夫 他 訳(河出文庫)
2006/01/21

ぺガーナ神話、初の完訳。ダンセイニファンにとっては貴重な一冊であり、またダンセイニを知らない読者にも、 この機会にぜひ手にとってみてほしい一冊であります。

ぺガーナ神話というのは、The Gods of Pegana(1905)とTime and the Gods(1906)という2短篇集におさめられた、 ダンセイニ卿の創作神話のこと。卿が創造した独特の神話世界は、後世の作家たち、とりわけラヴクラフトや稲垣足穂などに多大な影響を与えました。
人間を持てあそぶ数多の神々は、大神マーナ=ユード=スーシャーイの紡ぐ夢幻に過ぎず、 そのマーナでさえも<運命>と<偶然>とのゲームに左右される存在でしかない。 世界はやがて必ず<終末>を迎え、 <死>も、<時>ですらも、存在することをやめてしまう――
ケルト的幻想とペシミズムに満ちた世界観。壮大な宇宙的視点で描かれるヴィジョンの数々が、読者に、驚異と畏怖の念を抱かせます。
また、リンパン=トゥング、ヨハルネス=ラハーイ、サルダスリオン、ザルカンドゥ、ティンタゴン、セガーストリオンなど、 神々や都市や山河の、美しい異境の響きをもつ名前は、すべてダンセイニ卿の創作で、読者のイマジネーションを喚起せずにはおきません。

ただ、以上のような神話の内容は、すでに多くのファンが語りつくしてきたことです。
これまで、ダンセイニ卿の作品群、ことにぺガーナ神話について、ファンはどうもマニアックに説明しがちで、神聖視しすぎだったのではないかなと思います。

たとえばラヴクラフトなどは(あえてラヴクラフトを熱烈なるダンセイニファンの一人としてとりあげたいと思います)、ダンセイニ作品について、こう言い切っています。
「ダンセイニ評価の望みがかかっているのは知識階級であり、大衆ではない。何故なら彼の文学の魅力は、極めて繊細な芸術と上品な幻滅倦怠との魅力であり、 優れた趣味を有する者のみが享しめるものだからである (※注1)」
……そんなことはない、と思うのですが(^^;

一方で、『時と神々の物語』の訳者のひとりである中野善夫氏は、こう言っています。
「ダンセイニの作品というと、「ケルトの黄昏」という言葉に代表されるように、同時期のアイルランドの作家との関係が強調されたり、 あるいは異境の神話の創造者ということが強調されたりして、重々しく受け取られすぎてきたような感がある。 …(中略)…本当は、ダンセイニはもっと気軽に楽しく読んでいい (※注2)」
わたしも、中野氏の意見に賛成です。

ぺガーナ神話をはじめとするダンセイニ卿の作品には、ほんとうに誰も真似できないほど、古雅で美しい幻想世界が描かれています。 けれどもその作品世界を崇高だとか難解だとか思い込んで、臆することはありません。 ダンセイニ卿の物語の中では、古めかしいものを愛する心、牧歌的な風景を愛する心、美を愛する心を、思う存分遊ばせることができるのです。
ですので、ダンセイニ作品をまだ読んだことがないという皆様、 文庫の裏表紙に印刷された「美しくも残酷な異境の神話を描いた極北のファンタジー」なんていう紹介文にひるまず、気軽に一読してみてください。
ぺガーナ神話は、難しく考えながら読む必要なんてありません。ただここにある純粋な美を感じて、楽しみさえすれば良いのですから。

※注1 H・P・ラヴクラフト 著/矢野浩三郎 監訳『定本ラヴクラフト全集 7−1』(国書刊行会)所収「ダンセイニとその業績」より抜粋
※注2 ロード・ダンセイニ 著/中野善夫 他 訳/『世界の涯の物語』(河出文庫)訳者あとがきより抜粋

→ロード・ダンセイニの本の紹介はこちら

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「雪の女王 アンデルセン童話集@」

エドマンド・デュラック 絵/荒俣 宏 訳(新書館)
2006/01/08

イギリス挿絵画家の最高峰エドマンド・デュラックが絵を寄せた、美しい一冊。
荒俣氏の訳文によるアンデルセンがまた素晴らしく、童話の奥深さを感じさせてくれます。

収載作品は「雪の女王」「豆つぶのうえに寝たお姫さま」「皇帝の新しい服」「風の話」の4編。
「雪の女王」はちゃんと読んだことがなかったし、「風の話」はまったく未知の物語だったのですが、ほんとうに深い味わいがありました。

「雪の女王」は、幻想味あふれるエピソードがいくつも断片的に織り込まれ、上質なファンタジーの香気が漂っています。
悪魔の鏡のかけらが目に入り、良いものやきれいなものが見えなくなってしまったカイ。やがて雪の女王に連れ去られてしまったカイを探して、 主人公ゲルダは長い長い旅に出ます。その旅の途上で、ゲルダはじつに多くのことを経験し、さまざまな人たちに出会い、おそろしく辛い目にあいながらも、純粋な心を決して失いません。 そしてゲルダの心のあたたかさが、雪の女王に魅入られて凍てついてしまったカイの心臓を溶かし、もう一度脈打たせたのです。
けれども、お話の筋だけを知っても、この童話は何の意味もありません。美と幻想と人生の寓意に満ちた物語を、デュラックのリアリスティックな挿絵とともに、ぜひ堪能してみてください。
わたしは驚きましたもの、「雪の女王」ってこんなにも、大人のための物語だったのか、って。

「風の話」は、ある富裕な一家が没落していく様子を、世界を歴廻る風が語ってきかせてくれるという趣向。
一家の没落事情なんて、子ども向けの内容とは考えにくいですが、こんな話を童話集のなかに含めるとは、さすがはアンデルセンと言うべきでしょうか。
風が透徹した眼差しで、地上のすべての出来事を見ており、ときおり含蓄深い科白さえ挿入されるのですが、この風の語り口が良いのです。
お話の最後、一家の者が没落の果てに、みな天に召されたことを語ったあとで、風は言います。
「その墓も、アンナ・ドロテアの墓も、どこにあるか、ちゃんと心得ている。けれども、おれのほかは、だれも知らないよ。
古い秩序が変化して、別の秩序が生まれる。古い街道は、よく手入れされた田畑に変わり、大切にされた墓地は、行き来のはげしい道に変わる。 やがては、客車をいくつも引っぱる汽車も走るようになるだろう。そして、名前も位置も忘れ去られた古い墓地の上を、矢のように走っていくのさ」
この文章を読んで、わたしはエミリー・ディキンソンの詩の一篇を思い出しました。(E.ディキンスン 著/中島 完 訳『自然と愛と孤独と 詩集[改訂版]』(国文社)より)
百年の後は
その場所を知る人もない
そこでなされた苦悩も
今は平和のように静か

雑草が誇らしげに肩を並べ
ときおり道に迷った旅人が
もう遠い死者の
寂しげな墓碑の綴り字を探った

夏の野を過ぎる風だけが
この道を思い出す
本能が
記憶の落していった鍵を拾う
とにかく大人にとってこそ、味わい深い童話集。
デュラックの挿絵は、幻想の美と人生の悲しみとを見事に描き切っています。
思えば、わたしたちは子どもの頃、こういった美や悲しみのすべてを、直観していたのかもしれませんね。 大人になる過程、常識や社会での作法を身につけていくうちに、いつのまにか忘れてしまっていただけで。
アンデルセン童話は、そういった人生の真実を、もう一度わたしたち大人に、思い出させてくれるのでしょう。

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「アルネの遺品」

ジークフリート・レンツ 著/松永美穂 訳(新潮社)
2006/01/02

レンツの筆は、最後までわたしの期待を裏切ることはなく、静けさと悲しみに満ちた濁りのない文体が、 読後のいまも、胸に深い余韻を残しています。

舞台はドイツ、エルベ河畔のちいさな港町ハンブルク。
物語は、語り手ハンスが、アルネの遺品の整理をはじめる場面から幕を開けます。 長いあいだアルネとともに過ごした屋根裏部屋で、しかし遺品の整理はなかなか進みません。
フィンランド語文法の本、ボスニア湾のカラー地図、ヨット用の結び目の手本がついた板。 すべてがアルネ少年の姿をハンスの目の前に浮かび上がらせてしまうからです。
木製の、赤白に塗られた小さな灯台の模型を眺めながら、ハンスの回想がはじまります。
一家心中で、たったひとり生き残ってしまった少年、アルネ。
ハンスの父親は、アルネの父親と古い友情で結ばれており、アルネはある冬の日、ハンスの家にひきとられてきます。
無口で仕事熱心な父、やさしく忍耐強い母、責任感があってやさしい長男ハンスに、やんちゃで勝気な弟のラース、女の子らしく気まぐれな妹のヴィープケ。
この家に、新しい家族として迎えられることは、過酷な体験をした子どもにとって、これ以上望むべくもないこと、と誰にも思われました。
実際、両親はアルネをほかの兄妹たちと同じように扱いましたし、長男のハンスは、深い理解と惜しみないやさしさをアルネに示します。
それなのに、アルネはどうして、たった15歳で、死を選ばなければならなかったのでしょう?

まるでうすい紗が、物語をふわりと包み込んでいるような雰囲気。
「15歳の少年は、なぜ死を選んだのか」「純粋な魂の悲劇」などというオビのコピーから受ける、 痛みやまぶしすぎる光といった印象とは、まったく異なる雰囲気が、物語の最後まで続きます。
読んでいる間じゅう、よせては返すさざ波のように、やさしさと悲しみとが入り混じって胸に迫り、また遠ざかっていきます。
すべての場面は正確に、手にとることさえできそうに克明に描写されているにもかかわらず、 その光景は一枚の紗がかかったように、少し遠くて静かなのです。
それは「」(かぎかっこ)を使わない文体、17歳という年齢に似合わぬやさしさと落ち着きをそなえたハンス青年の語りと回想、 という仕掛けによるところが大きいと思います。

舞台設定も良いのでしょう。訳者あとがきによると、「エルベ河畔」はこれまでにもよくレンツ作品の舞台として選ばれていたとのこと。
ドイツ北方の川辺の町の、不思議になつかしい風景。そこに住むのは、口数少なく、けれども思いやり深い人々ばかり。 ちいさな町ならではの、仲間意識や連帯感、行き交う人はすべて見知った顔という安心感もあります。
ハンスの父親はこの町で、船の解体工場を営んでいるのです。造船工場ではなくて、もう役目を終えた船の解体工場という設定もまた、 物語にしみじみとした趣を与えています。

脇役もすばらしいです。倉庫管理人のプルノウ。航路標識を整備するドルツ老人。年取った船大工のトルゼン。罪を犯した過去をもつ、警備員カルック。
みんな職人気質で、信頼のおける人たちばかりで、彼らは適度な距離をおきながら、アルネを見守っていました。 とりわけ警備員のカルックと、アルネとの言葉少ない交流は、深く胸を打つものがありました。
それなのに、アルネはどうして、あえて死を選ばなければならなかったのでしょう?

たしかに、いじめはありました。聡明で純粋無垢な、まるで聖人のようなアルネ。一家心中という、同じ年頃の誰も想像することもできない、過酷な体験をしたアルネ。 ラースやヴィープケ、それに学校の仲間たちは、そんなアルネを理解することができず、どう接していいかわからず、いじめが起こりました。
けれどもいじめが、アルネの自殺の直接のきっかけではありません。

「15歳の少年は、なぜ死を選んだのか」
一家心中の、たった一人の生き残りという、過酷な運命に耐え切れなかったのか。
若く、あまりに未熟だったたために、誰にも起こりうる試練に耐え切れず、早計にも死を選んでしまったのか。
実は最後まで読んでも、自殺の理由は、はっきりとわかるとは言い難いです。 アルネの気持ちは、わたしにも理解できない部分があります。たぶん、ハンス青年と同じように。
ただ言えるのは、アルネが弱すぎたのではなくて、未熟だったのではなくて。
聡明すぎ純粋すぎたために、彼の魂は15歳にしてもうすでに、あまりにも多くの苦痛を味わって、老いた兵士のように疲れきっていたのでしょう。

感受性がつよく無器用な人間の生きにくさと、けれど人生とはそういうものなのだという諦念と。
そしてこの小説の何よりの魅力は、話の筋や主題より、やはり「雰囲気」、エルベ川の匂いさえ感じとれるような、文体の妙、描写の技にあるのではないでしょうか。

→「新潮クレスト・ブックスの魅力」はこちら

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