〜想い出すと懐かしい〜
小沼 丹は、作家、英文学者。早稲田大学勤務のかたわら、ミステリ、随筆、翻訳、私小説など、すぐれた作品を発表しました。 飄逸な筆致。知性と教養に裏打ちされた、とぼけた味わい。想い出の中に甦る日常の風景、亡くなった人、鳥や花、過ぎ去った時。それらは決して感傷的でなく、明るく、何とも言えぬおかしみを湛えている…。 このページでは、そんな魅力にあふれた小沼作品を、ごく僅かではありますが紹介します。 |
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小沼 丹 ― おぬま たん ―作家、英文学者。
1918年、東京生まれ。本名は救(はじめ)。早稲田大学文学部英文科卒。小沼家は祖父の代まで会津藩士、父は牧師だった。 明治学院高等学部時代にはチェーホフ、井伏鱒二を愛読。のち井伏鱒二を師と仰ぎ、早稲田大学勤務のかたわら小説や随筆の執筆を続けた。1958年より早稲田大学教授をつとめる。 1996年11月8日、肺炎のため78歳で死去。 著書に、『村のエトランジェ』(みすず書房、1954)、『白孔雀のいるホテル』(河出書房、1955)、『懐中時計』(講談社、1969、読売文学賞受賞)、『椋鳥日記』(河出書房新社、1974、平林たい子文学賞受賞)、『小さな手袋』(小澤書店、1976)などがある。 翻訳作品に、 R.L.スチヴンスン『旅は驢馬をつれて』(家城書房、1950)など。 |
「黒いハンカチ」小沼 丹 著(創元推理文庫) |
「婆さんは、ニシ・アズマが太い赤い縁のロイド眼鏡なんか掛けているのを見ると、狼狽てて呼び留めて、 その眼鏡を掛けると先生の器量が三分の一は割引されるから止めた方がいい、と毎度の忠告を繰返した。事実、美人とは云えぬが愛嬌のあるニシ・アズマの可愛い顔にその眼鏡は似合わなかったが、ニシ先生は一向に平気らしかった」 ――「指輪」より 『懐中時計』などの作品で知られる私小説作家、短編の名手と称される小沼 丹の、非常にめずらしい連作推理短編集。 …とのことなのですが、わたしはこれを読むまで、恥ずかしながら小沼 丹という作家を知りませんでした。 でも!この本は癒し系ミステリ(?)としても、ぜひおすすめしたい一冊。私小説作家・小沼 丹を知らずとも、存分に楽しめます。 住宅地の高台に建つA女学院。ニシ・アズマ先生は、遠くに海が見える学校の屋根裏で、こっそり午睡することをこよなく愛している、小柄で愛嬌のある顔立ちをした女性。 けれど可愛らしい彼女が、ひとたび太い赤縁のロイド眼鏡を掛けると、名探偵に変身。ホームズばりの鋭い観察眼で、いくつもの謎を解き明かしてしまうのです。 この作品の魅力は、まず舞台となるA女学院の牧歌的な雰囲気。初出が昭和32年から翌33年とのことなので、時代的にも、まだまだのんびりしていたのでしょう。ニシ・アズマ先生の科白も、「〜しれなくてよ」「〜良くてよ」など、現代女性からは考えられないほど丁寧で、そこが素敵。 さすが短編の名手と言われる作家、美しい日本語で淡々と綴られる物語は、全体的に長閑で、時間がゆっくり流れている感じがします。 癒し系ミステリとしてのイチオシの魅力は、殺害動機などの生臭い、どろどろした部分の叙述が、不自然でなく巧妙に避けられているところ。余白がある、とでも言えば良いでしょうか。 そのあえて描かれなかった部分を、読者は自由に想像することができるのです。 テーマパークのアトラクションみたいに、無理やりぐいぐい連れ去られて、おせっかいなぐらい説明過剰な小説ばかりがベストセラーになる昨今。 <息もつかせぬ展開!><徹夜で最後まで読みました!>等というあおり文句に疲れている方に、『黒いハンカチ』は一服の清涼剤になること間違いありません。 →Amazon「黒いハンカチ (創元推理文庫)」 |
「小さな手袋/珈琲挽き」小沼 丹 著/庄野潤三 編(みすず書房) |
上記で紹介した、牧歌的でレトロなミステリ作品『黒いハンカチ』を読み、初めてその名前を知った作家、小沼 丹。
実はミステリというジャンルは、小沼作品の中ではかなり異色で、本来この方は私小説や随筆にすぐれた作家であり、早稲田大学教授をつとめる英文学者でもあったのだとか。 かほどに文学音痴のわたしではありますが、『黒いハンカチ』の何とも言えぬ、ほのぼのしみじみとした語り口に魅せられ、小沼 丹の他の作品も読んでみようと、この本を手にとりました。 本書は『小さな手袋』(小澤書店、1976年刊)と『珈琲挽き』(みすず書房、1994年刊)を底本とし、著者の友人でもあった庄野潤三氏が編集した随筆集です。 手にしっくりなじむ、《大人の本棚》ならではの装幀。本文は新字旧仮名遣い。 読みはじめると、静謐でありながらユーモアのにじむ筆致が、じんわり心にしみて…冒頭から3つ目に収録されている表題作「小さな手袋」で、もうすっかり小沼作品の虜になってしまいました。 「小さな手袋」は、とある酒場で隣り合わせた男と女の、何気ないやりとりを描写した作品。 その店には初めて訪れたという仏頂面の男。彼が落とした赤い小さな手袋を見て、ビイルを注いだ女が話しかけます。「あら、可愛い手袋ですわね……。」そうして始まったふたりの会話を、聞くともなく聞いている著者。 手袋は子どもに買ったものだということで、男はぽつぽつと知っている童謡のことや、パン屋を営んでいること、来月の同窓会のこと、「やつこ」というなじみの酒場の親爺と釣りに行くことなど話します。 やがて男が帰り、著者は思い浮かべます。その男の営むパン屋の様子や、些細な日常の風景を。 僕は電車でたつぷり一時間は掛る遠い町の一軒のパン屋を想ひ浮べた。それは多分、清潔で明るい店で、パンも旨い筈である。 そのパン屋の主人は、仕事が終るとやつこなる店に憩ひ、ときには釣に出掛ける。来月は同窓会に出るのを愉しみにしてゐる。 それから、孫のやうな小さな女の子と、二つしか知らない童謡を歌ふのかもしれない。この「想ひ浮べ」る感じが、小沼作品の独特の味わいで、実はこの部分だけを引用しても、その何ともいえない気持ちを伝えることはできないのですが……。 このあとのしめくくり、男が落としていった小さな手袋を著者から手渡されたときの、女の様子がまた効いていて、くうっ、という感じなのです。 随筆というより一篇の小説のようでもあり、それは本書に収録されているすべての作品に言えることです。 たとえば最後ちかくに収録された「遠い人」という作品。 「庭で焚火をしていると、旅先で出会つたいろんな人が、思ひ掛けずひよつこり煙のなかに浮んで消える。」という書き出しで始まるのですが、この感じがすでに小沼節(?)。 スコットランドのパルモラル城を訪れたときの、駐車場の番人の爺さんを回想し、最後に、 この爺さんも懐しいが、爺さんを想ひ出すと、庭園の一隅で珈琲を喫んだとき、卓子の上にちよんと乗つた一羽のきびたきも想ひ出す。と括られていて、こういう感じに、もう、くうっ、とさせられてしまうのです。 さっきから、「くうっ」だとか、「こういう感じ」だとか、「何ともいえない」だとか、あまり説明にならないような言葉ばかり並べていますが、小沼作品の味わいは、むしろこの説明できないところにあるのだと思います。 引用では伝えられない、読むとわかるこの「感じ」。 文体の妙というか、独特の呼吸というか。 さらっとしていて、しみじみとした可笑しみがあって、ときに哀しく、またたまらなく懐かしくて……。 ページを繰るたびに、本を読むことの愉悦が、心の奥底から、じんわり湧き上がってくる。 本をめぐる旅の途上で、小沼丹に出会えたことを、ほんとうに幸福だと思います。 心が疲れたとき、ほのぼのしみじみしたいとき、何より美しい日本語を堪能したいときは、どうぞ本書を手にとってみてください。 ※ ちなみに、川崎長太郎について書かれた「塵紙」という一篇に登場する「河出の平出君」は、おそらく(というか間違いなく)平出隆氏のことであると思われます。
平出氏の諸著作も大好きなので、ちらっと出てきた名前に「おっ!」と目をひかれたのでした。 ※ 『小沼丹 小さな手袋/珈琲挽き』はじめラインナップの渋さはもとより、装幀も素晴らしい、みすず書房《大人の本棚》。 文字も比較的大きめで読みやすく、軽いソフトタイプのカバーなので手になじみ、表紙・表紙カバーのデザインも上品で素敵。 まさに《大人の本棚》にふさわしい、注目のシリーズです。 →Amazon「小沼丹 小さな手袋/珈琲挽き 大人の本棚」 |
「小さな手袋」小沼 丹 著(講談社文芸文庫) |
上記で紹介した『小さな手袋 / 珈琲挽き』は、『小さな手袋』(小澤書店、1976年刊)と『珈琲挽き』(みすず書房、1994年刊)を底本として庄野潤三氏が編んだもの。そういうわけで単行本『小さな手袋』所収の作品は、15篇しか収録されていませんでした。
庄野氏の選んだ15篇はどれも味わい深く、これはぜひ単行本に収録されているすべての作品に触れてみたいと思い、こちら講談社文芸文庫の『小さな手袋』を購入した次第。 小沼氏の文章は、本来、正字舊假名遣で書かれているのですが、講談社文芸文庫においては、ほとんど新字新仮名に改められています。 古めかしい文章の味わいは残念ながら損なわれるかもしれませんが、文学初心者には読みやすく、親しみやすい一冊と言えるのではないでしょうか。 『小さな手袋 / 珈琲挽き』と重複している作品も、何度読んでもしみじみ良いなあと感じたのですが、通勤バスの中で思わず笑みを浮かべてしまったのは「型録漫録」。 大学の先生だった著者、毎年いろんな本屋が送ってくれるカタログのなかから、適当に(?)教科書を選んでいました。 ところがあるとき某書店の編輯長と、自分で教科書を出している他の先生方に云いくるめられ、ついに教科書を出すはめに。 何遍も催促されるので仕方無く原稿を送り、脱落しているといわれた箇所を電話で説明し、やっと出来上がった教科書でしたが、なんと註釈に間違いが。 こともあろうに電話で説明した部分が、「ああ、楽しい……」のはずのところ、「ああ、悲しい……」になっていたというのだから、とんでもないこと。 編輯長や担当者に詰問しても結局は埒が明かず、その教科書を一年だけ使ったものの、 教場で、「悲しい」の箇所は「楽しい」と訂正する、と云うと学生がげらげら笑った。仕方が無いから、電話の経緯を話したら、更にげらげら笑った。僕はたいへんつまらなかった。ここまでのくだりでも充分面白いのですが、やはりオチが効いていて、その教科書の収入で酒を飲み、酔っぱらって腕時計をなくし、そのまま時計を持たずに過ごしていたら、最後、 学生に時間を訊いて、じゃ止めよう、と廊下に出て時計を見ると大抵十分から十五分さばを読まれている。と締めくくられていて、小沼氏の随筆はこういうところが最高に上手くて可笑しいのです。 また小沼氏の随筆には、『小さな手袋 / 珈琲挽き』を編んだ友人の庄野潤三氏もよく登場するのですが、 「テレビについて」という一篇は、やっぱり通勤バスの中で読んでいて、顔がほころんでしまいました。 最初はテレビなど白眼視していた著者。酒の席でテレビを買った知人に、あなたもどうですかとすすめられ、はじめは知人を笑っていたはずなのに、翌日家にテレビが届いてしまいます。 「どうしてそんなことになったのか、さっぱり判らない」と腹を立てる著者でしたが、そのうち自分も知人にテレビをすすめるように。 庄野氏にもすすめると、「慎重にうちじゅうで相談」してテレビを買うことにしたというので、小沼氏は知り合いの電気屋に早速テレビを届けさせます。そして、 それから二、三日して庄野から葉書が来た。夕方になっても来ないので、子供と一緒に――今日は日曜だから駄目なのかもしれない、と半ば諦めていた所へ届いた、 と書いてあった。何でもその后で庄野の小さなお嬢さんが、笑うまいとしても自然に笑いそうになった、と庄野に話したとも書いてあって、僕はたいへん愉快な気がした。 この一事を見ても、彼の家庭が洵に円満であることがわかる。と書かれていて、ここのところで、しみじみとやさしい気持ちに包まれるのです。 庄野氏の家庭の様子も、庄野氏について語る小沼氏の筆致ににじむ友情も、読者の心をじんわりあたためてくれます。 印象に残った作品についてこうして書いていると、ほんとうにきりが無いのですが、とにかく小沼 丹の随筆はわたしにとって、がんばって読む必要がなくて、さらりと読めて、しみじみ良いなあと、心地よい後味をかみしめることのできる、素晴らしいものなのです。 ※ 講談社文芸文庫は、表紙カバーがつや消しの紙で、文庫ながら品のある装幀。 ラインナップも渋く、小沼 丹や小川国夫など、この文庫が出るまでは入手困難だった作家の作品も目をひきます。 文庫なので、地方の規模の小さい本屋さんでも入手しやすいのが嬉しい、要チェックのシリーズです。 →Amazon「小さな手袋 (講談社文芸文庫)」 |
「椋鳥日記」小沼 丹 著(講談社文芸文庫) |
『椋鳥日記』は、著者が早稲田大学の在外研究員として、1972年(昭和47年)春から秋までの半年間、ロンドンに滞在した折の出来事を、多分に創作的に綴ったエッセイです。
世界有数の大都市ロンドンについて書いた作家はたくさんいるけれど、英文学者、小沼 丹が見た1972年の「倫敦」は、古い家並みが美しい、気まぐれな雨降りの、なぜか老人ばかりが目につく、しみじみとして、どこか懐かしい街でした。 小沼氏が書いた倫敦の風景は、たとえばこんなふう。 屑屋の荷車をひく馬や、騎馬警官、往来をゆく馬の蹄の「ぱかぱか」いう音を聞くと、「失ったものが甦る気がして懐しかった。」たしかに、ほんの少し昔までは、日本でも馬は身近な存在だったそうです。 借りていたフラットの近所の酒屋には、「ジャック・スプラット」親爺がいます。痩せた亭主と肥った細君を見て、ひょっこり「マザア・グウス」を想い出しだので、そんな呼び名を付けたのだとか。 或る日の散歩では、白い木蓮に似た花の下のベンチで、新聞を読む老人に出会います。花の名を訊ねると「マグノリア」だと答え、「クラブ・アップル」の名も教えてくれます。この老人のことは「一枚の画となって頭のなかに残っていて、想い出すと、ひっそりした往来に落ちていた柔かな陽射の色も見えるようである。」 小沼氏は、ロンドンの古い家並みが続く、その落ち着いた佇まいをことのほか気に入っていたようで、繰り返しそんな街並を描写しています。「煉瓦と白壁と黒い柱と石版を組合わせた家が気持好い調和を保って、明るい陽射を浴びて静かに眠っている。人影は見当らず、窓のレエスのカアテンが微風に揺れているばかりである。」 今の日本では「かわいいロンドン」として紹介されているような風景ですが、ロンドンのこういった美しさは、もう40年ちかく前に、小沼氏が発見していたのです。 『椋鳥日記』は、こういう、ロンドンの何気ない情景が、感傷的でなく、淡々と、不思議なおかしみを湛えた文章で綴られています。 「緑色のバス」の章では、小沼文学の際立った特徴である「想い出す」精神が、とりわけ美しく表現されています。 ハムプトン・コオトからキュウまで、テムズ下りの船から見た晩春の風景。沿岸には山査子(サンザシ)や馬栗(マロニエ)が花盛り。移り変わる田園風景をぼんやり眺めながら、「初めて見る英吉利の田園に、多少酔ったような気分」で、「うつらうつら坐って」いる。 そんな「気分」で見た風景は、目の前にあったものの正確な記述でなく、著者の幾多の想い出と渾然一体となって甦ってくるものとして描写されています。 犬を連れ、橋の上から、船を見て手を振った少年を想い出す。小さな村を見て、中学生の頃に憶えた漢文を想い出す。白い髯の先生が、「水村山郭酒旗風」を説明するのを聞いて、景色が見えるような気がしたこと。 泳いでいた白鳥や家鴨。芝生の庭を持つ可愛らしい家。芝を刈ったり、如露で草花に水を掛けている奥さん。繋がれたヨットや小舟…。 「庭先から小舟に乗って、流を漕ぎ下れるのだから羨しい。昔憶えた輪唱用の短い唄に、静かに愉しく流を漕ぎ下ろうと云うのがあった。どこだったか忘れたが、静かな流がゆったり石の橋の下を潜ると、その先の深い樹立のなかに消えて行くのを見て、矢張りこの唄を想い出したことがある。しかし、小舟に乗らなくても構わない。現にこの船の上でも、この世は夢だ、何だかそんな気分になる。」 この「日記」はそもそも、旅の間に書き付けられたものではなく、旅のあとで想い出し、ときに巧妙に忘れられ、描き出されたもの。 小沼 丹の世界では、「想い出す」ことによって、ありふれた風景も、一度きり見かけただけの人たちも、花も、鳥も、過ぎ去った時がおだやかに、懐かしく甦ります。 ※ 講談社文芸文庫は、表紙カバーがつや消しの紙で、文庫ながら品のある装幀。 ラインナップも渋く、小沼 丹や小川国夫など、この文庫が出るまでは入手困難だった作家の作品も目をひきます。 文庫なので、地方の規模の小さい本屋さんでも入手しやすいのが嬉しい、要チェックのシリーズです。 →Amazon「椋鳥日記 (講談社文芸文庫)」 |
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